【イベント内容テキスト収録】「アートと民主主義、そして日本の未来」
MCDN事務局山本です。
昨年11月24日に行われたイベント「アートと民主主義、そして日本の未来」について、開催後動画をアップしました。
しかしその後、当日USTで参加してくださった稲盛隆穂さん(twitter ID @jackyie さん)がなんとイベントの全内容を書き起こしてくださいました(!)。
書き起こされたテキストはMCDNで利用していただいて構わないとおっしゃってくださったこともあり、ここに全文を公開することにします。(個人名等一部省略している部分があります)
興味はあったけど、2時間ある動画は見られなかった……という方、よくわからなかった部分を確認したいという方、その他、このイベントを今知った!という方も是非ご参考になさってください。
動画のタイムラインも明記していただいているので、ここが動画でみたい!という部分が有る方はあわせて動画もご参照ください。
最後になりましたが、稲盛さん、本当にどうもありがとうございました!!
※ ※ ※
【アートと民主主義、そして日本の未来 ~秋の夜会@ちょっと拡大バージョン~】
■00:02:38 山本
皆様、お集まり頂きましてありがとうございます。定刻になりましたが、まだいらっしゃられてない方がありますので、3分ほどしてから開始したいと思います。もう少々お待ちください。
■00:05:20 山本
では、皆様、お忙しい中お集まり頂きましてありがとうございます。MCDN事務局長の山本です。よろしくお願いいたします。
本日はMCDNイベント「アートと民主主義、そして日本の未来」にご参加下さりどうもありがとうございます。
本日は皆さんへのメールなどにも書かせて頂きましたけれども、オフ会のノリでカジュアルに議論できればと思っておりますので、プレゼンテーション等ありますけれども、皆様何かご意見やご質問等あったら、その都度発言して頂ければと思いますので、よろしくお願いいたします。
※山本から、スピーカーの紹介を行う。向かって左からご紹介します。(岩渕から遠い方から)
・荒川裕子さん(法政大学キャリアデザイン学部教授) 西洋美術史、文化組織マネジメント
・金山喜昭さん(法政大学キャリアデザイン学部教授) 博物館学
・斉藤淳さん(イェール大学政治学科准教授) 日本政治、比較政治経済学
・内山融さん(東京大学大学院総合文化研究科准教授) 日本政治、比較政治研究
・渡辺真也さん(インディペンデント・キュレーター) 現代美術
・上山信一さん(慶應義塾大学総合政策学部教授) ミュージアムマネジメント、地域再生、経営戦略、行政評価
・岩渕潤子さん(慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授/MCDN代表)
です。
これから始めますのでよろしくお願いいたします。
■00:07:08 岩渕
岩渕潤子です。こんばんは。今日はお忙しいところお集まり頂きましてありがとうございます。またスピーカーの皆様も今日は本当にツイッタで出会って、本当に顔を合わせるのは今日が初めてという斉藤さん、内山さん、渡辺さんも実は直接お会いするのは初めてですし、会場でお世話になっている金山先生にも直接お目にかかるのは初めてということで、初めてというメンバーでの議論になります。今日の会場を提供して頂いている法政大学キャリアデザイン学部の荒川先生から一言頂いてもいいかな…と言うことで、ご挨拶をお願いします。
■00:08:00 荒川さん
法政大学キャリアデザイン学部の荒川と申します。岩渕先生は皆さん、多分ご存知でしょうから、岩渕先生の無茶振りというのは慣れていらっしゃるかなと思いますが、急遽このたび、法政大学で会場をご提供して、皆様方と情報交換したり、ネットワーキング構築の機会にできたらと期待しております。よろしくお願申し上げます。
■00:08:40 岩渕
ありがとうございました。毎度のことで恐縮なんですが、今日も予定が色々立て込んでおりまして、時間がびっしりの中に色々議論をして、できるだけフロアの皆様の中からも質問をお受けしたり、あと本日はsoranoさんがいらして下さって、Ustreamで中継しておりますので、ソーシャルストリームから質問が入ってくると思いますので、それにもお答えして行く形で行きたいので、てきぱき進めて行きたいと思います。
そもそも今日、こういう機会を持とうと思った理由と言うのが、色々な問題が美術を取り巻いてあるということは皆様ご存知のことと思いますが、そういった中で、アートマネジメントですとか、文化政策ですとか、文化資源学ですとか、色々そういう領域が近年できまして、そういった問題を解決しようと我々は議論をしているんですが、なかなか美術以外との接点で、社会全体の枠組みの中でアートの価値とか、文化施設について議論する場所がなかった。それで、たまたま斉藤さんですとか内山さんとツイッタで大学経営論の話をしているときに米国の大学が、私立大学が非常に力を持っていて、独自の財源を持っていて、卒業生やその他、地域の有力者だとか、財団だとか、企業からの寄付金で、非常にダイナミックに運営されているというお話をされているところに、美術館もそうですよとお話をして、それで話が盛り上がったものですから。斉藤さんが11月に日本に来られるらしいということがあって、一つのミッションとしてはイェール大学の学生のリクルートをされに来ると言うことだと思うのですが、私が直接お会いしたいと思って、無理にこういう機会を作らせて頂いて、斉藤さんのツイッタのライン上に出没していた内山さんですとか、お声をお掛けしまして、いらして頂くことになりました。丁度時期を同じくして、渡辺さんが「地域系アートプロジェクトの構造的限界と日本美術界の病」ということでツイートしたことをツギャッタの方にまとめられたお話が今日の議論をスタートする出発点としてはすごくいいんじゃないかなと思ったので、渡辺さんもツイッタで出没しておられていたので、お声をお掛けして、今いらして頂いた上山さんは元々存じ上げているんですが、やはり行政改革、事業評価、文化施設の評価をずっとやって来られているという経緯でお声がけしております。文化施設や動物園にもご興味があると、皆様は多分、大阪市の行政改革を取り組まれたり、今は大阪府橋下知事のブレインとしてご活躍ということをご存知と思いますが、直接というか、必ずしも文化だけでない行政の枠組みからお話を聞かせ願えればと言うことでいらして頂きました。
金山先生は、新潟の美術館で蜘蛛の巣が張ってしまった事件と言うのがありまして、その後の経緯の中で上山さんとご一緒に評価と事業改善に向けた報告書がついこの間出たばかりなんですが、博物館学がご専門とのことですので、今日のメンバーの中では美術館とか博物館など、施設がご専門と言うことです。
荒川先生は、私は前任校で同僚ということで、アートマネジメントがご専門でもあり、無理を言って三週間前にお願いしたのですが、こちらの場所をご提供頂くということで、荒川先生には大変感謝しています。どうもありがとうございます。
それでは早速なんですが、渡辺さんに冒頭の問題提起としてプレゼンテーションということで、パワーポイントを見ながら、ご説明を頂きたいと思います。
■00:13:45 渡辺さん
プレゼンテーションの際、使用されたPPT
(当初、渡辺氏のマイクで音声が拾われていない)
私の連続ツイート「地域系アートプロジェ クトの構造的限界と日本美術界の病」から抜粋した簡単なスライドを作りましたので、時間も限られていますので、10分間で簡単に説明します。スライドをご覧になっていてください。
今回のプレゼンテーション内容ですが、東京歴史文化財団、東京文化発信プロジェクト室、東京アートポイント計画での体験をまず話します。今日は東京歴史文化財団の職員さん、東京アートポイント計画のアドバイザリー委員の方、共催団体の方も来て頂いていらっしゃるので、機会があれば、お話が出来ればと思っています。
二番目にアートが道具として使われている現状、三番目に根本的な問題として取り組まねばならない課題。
このプレゼンテーションが終わってから、アートが道具として使われている現状について皆さんとお話が出来たらなと思っています。
アートポイント計画での体験を簡単にお話します。行政側はアートそのものよりも、アートをどう「使って」都市機能の不備を補うか、に興味がありました。私はその部署の中で、教育プログラムと水辺に関するアートイベントを担当しました。水辺の民間団体、水辺を活性化したいと思っている民間団体は、水辺を活性化したいと考えています。そして、東京都も水辺を活性化したいと考えています。しかし、東京都の水辺が厳重に管理され過ぎていて、立ち入ることが出来ません。そこに何とか、風穴を開けることができないか、と言うことを考えた時に、水辺の団体側からは東京の水辺でクルージングをしたいと思っても、桟橋の使用許可が下りない。そこで、そのエクスキューズとして、「防災クルーズ」と言う名目を使って、防災桟橋の使用許可を区から取っている、と言う現状があります。こういう背景から、行政側と水辺の団体の双方から「防災」や「アート」という言葉が目的達成のための道具、マジックワードとして引き出されるという傾向がある。
私は「防災とアート」と言うプロジェクトに関してキュレータとして関わりました。こちら東京都が主催して、東京都の生活文化スポーツ局のサテライト部署として作られた東京文化発信プロジェクト室のアートポイント計画という部署なんですが、そこと「共催」をする一般の団体が、東京都の他の局から許可を得ることを求められます。東京都の港湾局からは許可を得ようとしても許可が下りない中で、私たちは何とかそれを進めるために、テストランをするのですが、テストランをして、ハーバーに船を安全に停泊させることができても、安全に停泊することができた船の「安全性」を確認するための書類作りを求められます。仮に本当にこれが罷り通ってしまうと、仮に東京で震災があったことを想定したアートプロジェクトとして、道具として使われているものであるにも関わらず、想定した事態が本当に起こった時にどうなるんだ、と言うことを考えた時に、かなり危機的な状況になっている。これはちょっと下に書いたのですが、阪神大震災のときにスイスからの救助犬が入れないと言う事故がありましたが、人命を守るためのルールが、いつのまにかルールを遵守することが目的化し、人命を守れない、と言う逆転現象が起こってしまう、そういう現状があります。
ちなみにこの部署は単年度会計をやっているプロジェクト室でして、資産を持つことが出来ませんでした。年度末になると予算が余った場合は必要でもないものにも予算が使えたりするんですが、例えばテーブルマットは購入すると資産と見なされてしまうため、購入できないでレンタルになります。結果的に多くの税金が無駄になります。あとで関係者の方にも伺いたいのですが、個人的に思ったのはバランスシートを使った複数年度会計をすれば、こういう問題は解決できるのでは、と現場が思っても、現場では変える事はできません。
行政の方たちは自分たちのデスクワークはかなり真面目にこなしています。しかし書類仕事が膨大過ぎてしまって、書類を常に作り続けても終わらないという問題があります。それは恐らく資金に関する問題が発生することがあって、書類主義を徹底してしまった結果、書類があまりにも膨大になってしまった。常に「書類主義」ということが、都の中で言われている中で、それを皆さん毎日やっている。それをやっていく中で体力と時間をかなり奪われてしまっています。この都の監査と同じ基準を、共催相手のNPO法人や一般社団法人に求めます。つまり、二人とか三人でやっているNPOに対しても都と同じ監査基準を求めると、ほとんどの団体は根を上げてしまいます。そうすると、アーティストたちは、「本当に官僚は頭悪いな」と思い、私が間に立たされてしまう、ということがありました。そもそも地域市民のためであったり、アートということを謳っているものが、いつの間にか官僚の自己目的化してしまった書類作りのようなものになってしまって、それがずっといる間にわからなくなってしまって、そのまま思考停止になってしまう状況があるな、と思いました。
この問題が発生しても、問題の原因が追及されないため、同じ問題が繰り返されて、それが制度的な問題であっても、政治を動かして制度を変えることが出来ない。
税金に関するアカウンタビリティにしても数円狂っているだけですべてやり直し、という書類になるですが、これをNPO法人に求めるのはちょっと酷だと思います。税金に関するアカウンタビリティに関しては一円単位の会計を明朗にすることではなく、何にどう使ったかの説明責任であるべきだと私は考えます。
日本の行政は世界のアートとリンクした国内インフラの整備が急務です。更に日本の閉鎖性を打ち破り、海外との情報格差を埋めるためには多言語発信が必須です。しかし、東京文化発信プロジェクト室は海外に郵便物を送ったことがありませんでした。左側にスライドが出ていたんですが、これは水辺のアートヒストリーという冊子を私が作りまして、その時に使ったデータなんですが、海外の画廊とか色んなところからコーテシークレジットを無料でもらってきて、お礼の意味を込めて、何冊か海外に、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカに送ったんですけれど、その時に、「前例が無い」と言われてしまって、それはまずいので、「フェデックスのアカウントを作りませんか」と提案をしても、受け入れてもらえない。
人材育成レクチャーを8つやったんですが、その中で一つでも良いから英語でのレクチャーをするべきだ、それで、東京の文化を海外発信すべきだ、と言う意見を述べても却下されてしまいます。
それで私の意見ですが、英語での教育や英語での発信が出来る人材が日本にいるにもかかわらず、英語発信することが出来ないと言うのは日本にとって多大なる損失だと思います。
アートは世界で最もグローバル化した領域の一つです。しかし、グローバルなアートの概念を理解するための美術教育がなされていない為、日本のアートが完全にドメスティックな文脈に成立してしまっています。このドメスティックな文脈は外部のアートとうまく接続することが出来ないため、海外での流通が出来ません。
すなわち、アートが近代的な資本・知識・労働の集約物としての価値を持つことが出来ません。下の図にあるように、アートの集約的価値から、作品の流通が生まれ、そこから市場価値が高まっていくといわゆるマーケットの構図が生まれないという現状があります。
■00:21:33 渡辺さん
二番目に行きます。アートが道具として使われている現状について。
いわゆる地域系のアートプロジェクトを「道具」とした街おこしが主眼です。アートのルールが根本から消滅しています。アートプロジェクトの事後処理なんですが、作品が残らないとアートヒストリーも蓄積されない、昔あった「もの派」のような状況が、変奏曲として繰り返される。
もしも、街おこしをしたいのであれば、東京への中央集権をやめて、地方自治を優先する政治的判断を国民が取るべきだ、と私は考えます。
アートは専門性が要求される分野です。しかし、地域系アートプロジェクトに関わる行政の役人はアートと関係ない部署から配属されます。例えば、水道局の部長さんが文化の部署に来るわけです。そうすると、文化のことは分からないわけですね。行政の担当者と言う人がほぼ毎年変わってしまうため、その団体であったり、プロジェクトの継続した話し合いが行われず、ノウハウの蓄積がなされません。
つまり、ややもすると、変わらないことを前提とした役人のアリバイ作りが目的化してしまう。行政側から文化に取り組む人の専門性を高め、固定することが出来ないでしょうか。
街おこし的な地域系アートプロジェクトが大変盛んになっています。現在ホワイトキューブ系のアート展、今まで私が作ってきた現代美術のアート展なんですが、数十万円の助成金しか財団からはおりません。ところが地域系という名前が付くと数百万円という助成金が下りると言う現状があります。
そうすると、そもそも、文化の発展・育成を目標にした公金からの助成がファインアートの育成を妨げてしまって、アーティストが地域振興に借り出される、という本末転倒な事態が発生します。
そして、皆さんご存知かと思いますが、日本のアート界は非常に狭いので、仮に構築的な批判を加えようとしても、それが非常に加えにくい。どういうことかというと、友人、知人、お世話になっている方が皆関わっているんですね。その村社会的な中で、いやこれじゃまずいんじゃないか、という意見を発したり、受け入れてもらうには厳しい状況にあります。
しかし、アートプロジェクト的なるものに構築的批判を加えなくては、日本のアートを支える基盤がメルトダウンしてしまう、と私は考えます。根本的な問題として取り組まなければならない課題です。
日本における地域系アートプロジェクトの最大の構造的限界は、アートをアートたらしめいている概念的な思考が習得できていない点にある、と私は考えます。アートと言うのは、そもそも明治以降の日本が西洋近代から概念として受け入れたものですが、今日本がポストモダンと言う時代に差し掛かっている中で、そういったモダンのコンセプトがメルトダウンしているんじゃないかな、と私は感じます。
それを考える時にちょっと立ち戻ってみて、カントがファインアートとして定義している目的なき合目的性、つまり、「アートをやる」ということが目的で、それゆえ、アートをやるということが道具になるということが論理的にあり得ない、ということに一回立ち戻るべきではないかなと私は考えます。
評価軸に関してです。「なぜ、これがアートなの」という質問が現代美術によく浴びせられますが、プロのアーティストやプロのキューレータはそこに対して、説明責任を一番重く負うべきだと考えます。更に行政の説明責任として、今までの文化庁の奨学金のように成果報告も十分に行われない、と言う状況もまずい。しかし、アーティストの活動は10年単位のロングランで見なければならない、結果が出ないということも多々あります。評価軸をどうしようかと言うことですね。
これは私の意見なんですが、拡大しすぎた東京は完全に制度疲労を起こしています。日米安保が締結後、自らの意志を持つことが出来なくなってしまって、垂直的な資本発展のみが許された「悪い場所」としての東京というものがあって、意志を持つことが許されない東京と言うものがゴジラのようにこの街を徘徊しているような気がします。
日本国というのは、江戸期の様な地方の分裂が想定されない限り、韓国の様に政府機関を速やかに地方へ分散すべきだったのに、そういうことが出来ず、Status Quoのまま来ている。この結果引き起こされた東京が肥大することによって引き起こされた地方の縮小に対するカンフル剤として、更に東京などの大都市の行政機関の補完機能として、「道具」としてのアートプロジェクトが引っ張り出される、と言う、非常にちぐはぐな構造になっていると私は思います。
アートの未来は、日本の民主主義はいかに?ということでした。
ありがとうございました。
■00:26:20 岩渕
それでは、こちらの方にお戻り頂いて、早速議論を初めて行きたいと思うのですけど、また、いきなり振っても何なので、一応どういう順番でお話を伺っていくかと言うことを予めスピーカの方にお知らせをしておきたいと思います。今日のスピーカの中で官僚の経験がある方が内山さん、上山さん、それから、国会議員経験のあるの斎藤さんもいらっしゃって、なかなか非常にユニークなバックグラウンドの皆様なので、今の話で、書類を作ることが半ば目的化したような状況があると言う指摘について、内山さんに最初にお話を伺いたいなと思うのですが、いかがですか。
■00:27:10 内山さん
とにかく、書類が膨大で、それに忙殺されて、肝心なことが出来ないと言うのは、実はまさに大学教員が直面している問題でして、こないだも文部科学省から、膨大な書類を書けと言われて、それをやって、もうなかなか研究が出来ないと言うひどい状況なんですけれど、この基本的に英語でもレッドテープ(Red Tape)と言う言葉があります。繁文縟礼(はんぶんじょくれい)と言うことですよね。官僚仕事で大変な書類が出てきて、非常に形式主義的だ。これは日本だけに起こる現象ではなく、欧米でも兼ねてから指摘されていることでして、官僚制の逆機能、ディスファンクションと言うんですけれど、官僚というのは誰を相手にしても同じようにしなくてはいけないわけですよね。人によって、やり方が違ったら、これは法治でなく、人治になっちゃうわけですね。やっぱり、法治、法の支配を貫徹するのであれば、法に基づいた客観的、形式主義的にやらなければならない。ところが、これが逆機能をディスファンクションを起こしてしまうと、まさに、その書類でがんじがらめに縛ってしまう。更にはまさにはその会計を一円単位までも辻褄合わせないと駄目になってしまう。こういう構造になっちゃうわけですよね。
別の観点から見ると、これは行政特有の責任回避行動なのかなと言う気がするんですよね。責任回避、ないしは非難回避、ブレーム・アボイダンス(Blame Avoidance)ということが出来ると思うんですけれど、その何かあったときに、ほれ見ろ、お前がちゃんとしていないから、こんなことが起こるんだと言われてしまう。それを言われないように、予防線を張るためには、完璧な書類を作っておいて、我々としては書類は完璧に見たんです、作らせてやったんですと、最善を尽くしたんです。だから、悪いのはあいつなんですと言い訳が出来るわけですよね。
実は若干、話がそれますが、これは行政だけの問題ではなくて、実は政治家もそうなんですよね。尖閣の問題にしろ、色々ありますが、下がやったんだ、官僚がやったんだとだから、海保の長官を処分するけれども、大臣は処分する必要はないんだ。そういうロジック使うわけですね。考えてみるとこれ、自分たちの部下がしでかした不始末というのは本来トップの人が責任取らないといけないと思われるのに、下がやったんだ、下に責任転嫁、責任回避を行ってしまう。こういう構造が日本の官僚機構、政治機構問わず、かなり広く浸透してしまっているのではないかと。
官僚機構はその書類主義でもって、逆に民間の側とか、ユーザーの側に責任を転嫁してしまうという行動様式がある。これをどうするかって言うのが本当に問題なんですが、あの僕の今のところのテンタティブな考えとしては、本当の意味での政治主導で、しっかり責任を取れるポジションと言うのを作って、しかるべき人を据える。結局それをしないと、責任回避の連鎖みたいなものは止めどもなく、広がって行っちゃうんじゃないか。これはやっぱり、一つのレッドテープの大きな問題かなと思います。とりあえずはそんなところです。
■00:30:35 岩渕
ありがとうございました。次に上山さんに振ってもいいですかってことなんですが、上山さんは官僚のご出身でその後民間のシンクタンクでお勤めになって、アメリカの大学でも、日本の大学でも、教えた経験をお持ちですね。
一部省略
■00:35:40 岩渕
(上山さんが言った)よく分からないものであるという部分についてなんですけれども、先ほど渡辺さんがご指摘になった、それはキューレーター側の責任でもあるのかも知れないんだけど、アートをアートとして説明しないで、当座、議会を通すためとか、予算を承認してもらうために、他に教育的に価値があるとか、防災と関連してどうであるとかそういうエクスキューズと言うか、そういう論法を使い勝ちで、予算を通したり、承認してもらうために時間が限られた中にそういう論法をとってしまって、その結果わからないまま戦後ずっと来てしまったところがあると思うのですが、それが「わからない」という意味ですか。
(上山さん)そうなんだけれども、この分野に限らないですよ、それはさっきのプレゼン聞いて思ったんだけど、アートを福祉に変えても同じ。
(岩渕)環境でも。
(上山さん)環境でも同じだな、教育でも同じだな。官僚主義というのは、そういうものとは対立しちゃうんだよな。根源的に。学校給食を配るとか、道路をきれいにするとか、誰が見ても、意味がはっきりしていて、費用対効果だけで評価すればいいものの場合はいいんだけれども、そうでないものになった瞬間何でも。官僚主義、官僚主義って言うのは、民主主義突き詰めると官僚主義になるんですよ。というのは、説明責任を徹底的に突き詰めると、全ての議員が納得し、全ての市民が理解できるところまでデータを出し、論点を整理し、ということになると某大な資料を要求されるわけですよね。だからあのいみじくもあえて絡みますけど、民主主義を突き詰めるとアートは死んでしまうと。
(岩渕)そう言えない事もないですね。
(上山さん)言えない事ないでしょう。民主主義の質が問題であってね。
(岩渕)どのくらい弾力的に運用できるかってことですね。
(上山さん)民主的な政治家が政治的リーダシップを発揮する場合は良いけれども、単なる民主主義を突き詰めると、単なる官僚主義に当然なるので、日本は民主的な国家なので、極めて官僚主義になるんですよ。
(岩渕)民主的であるのか社会主義、もしくは、全体主義的であるのかというところが微妙なところなのかも知れない。
(上山さん)政治が本来官僚主義的に動いてしまう官僚制度とか法律を弾力的に運用するっていうのが大事なんだけど。
(岩渕)システム的にはよく出来すぎている。
(上山さん)システムとしてよく出来ていて、高度成長右肩上がりで、どんな計画を立てても、財政は後からついてくる前提なので、官僚制度でも別に困らない。後の人たちが何となくアートの人たちが、被害妄想があるのは、優先順位が比較的下だったんですよね。海外では教育がものすごく被害妄想があって、教育の人たちが極めて下なんですよね。日本の場合は環境に追い越され、福祉に追い越され、アートは何故か一番最後みたいな気持ちになっているのが現実なんですよ。ウェイティングリストにあるわけですよね。
(岩渕)なるほどね、それはありますね。振幅があって、アート系の人があって、福祉系の人が出てきて、その後、また文化の人が出てくるという振幅はどこの自治体でも見られがちなことかなって気がします。
(上山さん)まあそこはそうは言っても、弾力構造があって、日本の行政は環境とアートととかね、アート教育とか、ふにゃふにゃ言って、教育委員会も絡めたりしながら、誤魔化しながら、前に進むというのが現実で。それは別にアートだからではないと思いますよね。環境教育も同じくらいひどい目にあっていて、同じような愚痴言っていますから、もっと割り切って正面から戦えよという気が私はするんですけれどね。
■00:40:00 岩渕さん
ちょっと引き取らせて頂いて、次は斉藤さん。今みたいな話があって、特にアメリカの場合、アートはどちらかと言うと正攻法で行く。教育は教育で正攻法で行くと言うことがあると思いますし、アメリカの官僚が決して優秀ではないということはないと思いますけれども、政治家のリーダシップだったり、民間のリーダーシップだったり、歴然とリーダシップがあると言う印象がありますよね。斉藤さんは議員のご経験もおありで、志を抱いて、立候補されて、33歳の時に山形4区で議員になられた。またその後に、大学にいらっしゃって、政治学を大学で教えていらっしゃると言うキャリア・パスも日本的に考えると興味深いと思うんですが、その辺のご自分の経験も踏まえ、理想を実現することが日本ではどう大変なのか、アメリカとの比較において、お話頂けるといいなと思います。
■00:41:08 斉藤さん
まず、色々な問題が指摘されていましたけれども、自治体に予算がなくなって、人員が削減されてと言う問題はデフレから脱却することが最優先課題だと思います。まず、アートと民主主義ということですが、アートと民主主義とデフレですね。これからどうやって脱却するか、お金がなければ始まりませんから、そこをもう少し真剣に考えていかなきゃいけないのかなと、アートと福祉はトレードオフのようにガンズアンドバターズみたいな考え方をしがちですけど、お金さえあれば、両方出来るわけで、その経済的な基盤をどのように作っていくかを先に考えなければいけないのかなということを先ほど来から考えていました。
それから、岩渕さんに頂いた具体的な質問ですけど、日本の官僚、政治機構が抱えている問題って言うのは、説明責任をどう捉えるかと言うこと関係してくるのですが、基本的にプロセスを緻密に評価検証する割に結果に対して責任を問われることが非常に少ない。ここに大きな問題が集約されるのかなという印象を抱いております。
結果を評価するために、美術館あるいは博物館に明確なミッションがなければならないと、私はイェール大学の大学院に入学した時に総長のスピーチを明確に覚えているんですけれども、イェール大学には3つミッションがあるんだと、まず新しい知識を作り出すことだ、これはまず「研究」ですね。今ある知識を伝承することだ、それは「教育」ですね。そして、古い知識を保存することだ、だから、イェール大学には図書館があり、美術館があるんですという話をしていたんですけれども。
日本の博物館、美術館、あるいはアートをどうして行くかと考えるとですね。優れたアート、作品を持つことで、その価値を保存し、高めていくことがその美術館・博物館の運営主体の評価とどうリンクしていくか、自治体が美術館を持つことはモデルとしては私はあってもいいと思うんですけれども、地方自治体には様々なミッションがあって、美術館はその一部でしかないわけでして、もう少しこのアートの価値を高めることに特化したミッションと説明責任を持つ経営主体を自治体の複雑な多様な機能を持つ自治体の一部としての美術館と言う中でどうして行くのかと言うこととどう整理していけばいいのかということを考えます。
先ほどの説明責任を過程で考えるのか、結果で考えるのかと言うことはもう少し離れた問題かも知れませんけれども、やはり専門家を大切にしない日本の組織文化と言うことがあって、現場で気合と汗をたらふく流せば、何とかなる的な精神主義的がどうしてもよくなかったと思うんですね。
組織のローテーションも大切ですけど、美術館を回すための資金のマネジャーですとか、キュレーターですとか、専門知識とか専門性が大切なところにはきちんと投資して行く。そして、必ずしもローテーションで回していけばいいものではないと言うことは明確に考えていった方がいいのかなと思います。
■00:45:17 岩渕
ありがとうございます。次は金山先生に伺いたいのですけれども、専門家を大切にしない日本の文化という部分で、美術館・博物館で、事務方はその必要最低限の人数はもちろんいると思うんですが、それぞれの分野の専門家で、保存や修復の専門家を置いておける、そういうことを出来る環境の館も非常に少ないと思います。そんな中で、新潟の事故があったり、今年の夏は文化財の事故と言うのがありましたし、輸送の事故と言うものもありました。静岡県立美術館ではトリノから借りて来ていたエジプトの石像がゴトンとなった事件とか、あと屏風で金箔が黒ずんでしまった事件とか、随分色々あったと思うんですけれども、そういった中で、予算が切り詰められてきた中で専門家の方たちが雇えなくなってきていることによる具体的な弊害が目に見える形になってきたのが今年なのかと感じたんですが、その辺はいかがお考えでしょうか。
■00:46:40 金山さん
(金山さん)今の新潟市美術館の話がありました。私は先ほど紹介にありましたように、新潟市美術館の評価の改善委員会の委員長と言うことでこの4月からこちらにいる上山さんもメンバーなんですが、一緒にやってきました。この事故の発端になった展示作品からカビが発生した。蜘蛛も発生した。これはまた別の作品なんですが、皆さんご存知のことと思います。
これは別に専門家が特にそこで資料を専門に扱う本来ならば、学芸員の仕事の範疇の中で取り扱うべき問題であって、彼らの資料を管理していく責任能力の問題だったと思うんですよ。特段彼らが専門性がなかったわけではないんですが、カビを発生させた作品については生土を使った作品でこて細工を使った現代アートなんですけど、常識的に考えて、生土を展示室に入れて、作品に仕上げれば、空調をちゃんとやったにしてもですね。カビの発生が想定されるべきものであると思うんですが、その辺の想定が十分されていなかったとか、蜘蛛が発生した作品は電動カートなんですが、運び入れる時に電動カートをちゃんとチェックしたり、クリーニングをすれば、実は蜘蛛の巣が張っていて、卵までそこに産みつけて、卵が孵ってそこから、蜘蛛がどんどん出てきたということで、事前のチェックをしていれば、防げた問題だと思うんです。カビ・蜘蛛の問題は大きくクローズアップされましたけれども、極めて常識的な範囲の中で、管理責任を怠ったと言う問題だろうと私としてもそうですけど、委員会としても、そういう考えでですね。報告書には書いた通りなんです。
(岩渕)それは現場の職員の資質的にちょっとその足りない部分があったからなのか、それとも管理者の方により責任があったのか、どうお考えですか。
(金山さん)管理者と言う問題が今出ましたけれども、新潟市美術館はその辺りちょっと複雑な問題がありまして、これは新潟市が政令指定都市に制定された記念で、現代美術のイベント「水と土の芸術祭」というのを新潟市の市長が中心になってそれを企画して、現代アートのプロデューサーの北川フラムさんを登用して、総監督に位置づけて、当然そのときに美術館も会場の一つになるわけですから、美術館の館長を兼務すると言う形で位置づいたと、北川さんは実は美術館の館長の経験というか美術館の経験ないんですよね。そういう意味で全くの素人だった。そこには管理責任の不幸の始まりがあったんだろうとは思います。
その結果として、館長と学芸の事前の連絡協議が十分に果たされていなかった。事務方、これは副館長職がいましたけれども、その辺も副館長も、館長と学芸の間の、本来であれば、中間の位置付けとして、橋渡し役をちゃんとやるんですけれども、そこも十分位置づいていなかった。ということで組織内が十分にマネジメントされていなかったことが、学芸サイドでの管理体制の不備、学芸サイドだけではありません。組織全体としての作品に対してのケアが怠ってきたと言うことになると思います。
■00:51:30 岩渕
ありがとうございます。新潟は特殊な例というお話がありましたけど、日本の美術館や博物館は特殊な例だらけの運営体制になっていることがあるのかも知れなくて、その辺が欧米の美術館とはかなり違いますよね。後で議論させて頂きたいと思います。
次に荒川さんにお伺いしたいんですが、渡辺さんが指摘された中で、アートをアートとして説明してこなかった部分について、それは私も美術だけではないですが、色々なところで感じることが大きいです。活動しなければならないからお金がいる。デフレからの脱却の話もありましたけれど、お金がないと何も出来ないので、いかにして、どこからお金を取ってこようかということが、文化施設の運営をやっていると最大の課題だと思うんですよね。そういった中で、何とかアートの文脈から逸脱しないようにしつつも、お金を取ろうとすると、やはり教育とか、特にアカウンタビリティの話があると、アウトリーチ、如何に納税者に認めてもらって、アートにお金を使っていくかという話にどんどんなっていって、その辺で本末転倒と言うか、教育のためのアートみたいになってしまい、アートのための教育ではないということが起こってきたりということが起こってきます。その辺、荒川さんは色々な美術館をご覧になっていたり、海外の美術館もよくご存知だと思うのですが、いかがですかね。
■00:53:15 荒川さん
アートをアートして捉えるかということで、私自身の本来の専門は西洋美術史で、しかもアートがアートだった時代の18世紀から19世紀という本流の辺りをやってきたんですけれども、偶々とはいえ、法政大学のキャリアデザイン学部という生涯学習社会を構築することを目的とした学際的な学部に所属しているということもあるんですが、日々大勢のマンモス大学で若い学生たちと接していて、日毎にというか、年毎に、アートというものを扱うことを、アートをアートたらしめているものというのは何なのだろうと、正直自分自身がこれまでやってきたことの存立すら危ういような感覚を持ちます。
一つには、要するに学生たちは端的に言ってしまえば、学部とか、専門領域とか、差はそれぞれ違いはあるでしょうが、一般的に見て、極標準的な都内大規模私大の文系の学生は美術館は不要なんですね。思い余って、自分の授業を取っている何百人の学生に半期に一度は美術館に行ってくれと、ツイッタ3回分でいいから、レポートを書いてくれと頼むんですが、生まれて初めて美術館に行って、こんなきれいなところだとは思いませんでしたと言ったことを大学2年か3年になっても書きます。人生にとってミュージアムがなくても、私は「社会とアート」と言った授業とか、「文化組織マネジメント」と言った授業をやっているんですけれども、彼らにとっては美術館に行くことは、アートを学んだりとかアートについて考えるということとはちょっと次元が違うことと考えている。
その代わりに墨東まち見世だとか、東京アートポイントだとか、越後妻有トリエンナーレだとか、愛知トリエンナーレといったような、さっき渡辺さんが仰った地域系アートプロジェクトに目を輝かせて、聞いてくれるし、手前味噌なんですが、私のゼミ生たちもずっと今年度立川市の市役所のご協力を得て、ファーレ立川が丁度、フラムさんにもご紹介頂いたりもしてきましたけど、ファーレ立川がオープンして、10年、20年経ってきて、その次の世代が全くその当時の立川の背景のことを知らない今20歳前後の若者たちがあの大きな赤い植木鉢って、面白くないって?ということで、その前でミュージックビデオを作ろうよという風な全く別の文脈でアート作品を再解釈したり、そういう中に毎日身を置いていますので、私からまず是非渡辺さんに、質問を受けて質問で返すのはあれなんですが、地域系アートプロジェクト、ある意味では、バブルのような、この夏もたくさんあって、個々の入場者数や人数からいくと成功したというような言い方をされることが多いかなと思うんですけれども、只中に身を置いていらっしゃることも考慮して、学生を代弁しますと、「地域系アートプロジェクトの何が悪い」と彼らは言うと思うんですね。
本日いらっしゃっている方々の中にも大学院等でアートマネジメントや文化政策を専攻していらっしゃる方も多分少なからず、これから自分たち何をやっていくんだろうと学芸員の門はほとんど門がないに等しいぐらい少ないし、地域系アートプロジェクトで、単年度でも何でもお金もらって、向こう3年間ぐらい、食いつないでいきながら何とかしようというのが多分本音かなと思うんですが、それに対して、渡辺さんから、今の内に止めた方がいいよでも何でもいいからお考えをお聞かせ願えればなと思います。
■00:57:27 岩渕
ありがとうございます。まず、渡辺さんにお聞きして、その後に、フロアとツイッターなどで来ていると思われる質問にも答えて行きたいと思います。
■00:57:40 渡辺さん
質問ありがとうございます。
私、最近都内で、大学の美術を教えているスタジオアートの先生に実は相談されまして、授業でヌードモデルを呼んで、クロッキーを描くとそういう中で、10人ぐらい学生がいると、2人ぐらいはアニメみたいに描いてしまうらしいんですね。美術を教えることが困難になってきている、どうしたらいいですか、と聞かれて、答える言葉がありませんでした。
これは皆様に深刻に考えていただきたいと思っています。今まで考えていた社会が、前提から崩れてしまっている。
主権者意識の発露として生まれた近代美術館を、市民が自分たちのものとして、思えない。そして、市民がその構造を理解しないままに、美術館を私たちに解放せよ、と言っている。どういうことかと言うとこれは、国会の前に市民が行って、国会議員に向かって、何故俺が中に入っちゃだめだ、と言っているのと全く同じ。構造がないままに、自分たちの態度そのものを肯定する逆切れのような状態になっていて、専門性の高い美術をやっている人に対して、専門性を持って返答するのが私の責任だと思います。しかし、それが前提として話すことができない、というの今の状況です。
例えば、ちょっと飛んじゃいますが、今中国と日本、色々問題になっていますが、恐らくですが、中国は日本の民主主義はこんなものか、中国の方がもっとうまくやっていると思っていると思います。それに対して、私たちはどうやって答えるんですか?とみんなに問いたいですね。
それに関して、地域系アートプロジェクトに関して、直接的な返答、何がいけない?ってことに関しては直接的な返答はありません。しかし何がいけないか、自分たちで考えて欲しい。
■00:59:42 岩渕
ありがとうございます。
今のご指摘は大変重い部分だし、日本はそういった真面目な議論を避けるという傾向があって、文化庁が設置されて以来、戦後ずっとそうだったのかなと感じがするんですね。やはり、食べることが戦後最優先されて、その中でアートというものがシビルミニマム的な形で位置づけられて、施設として全国にあるべきであるということから入っていったので、観念的な、概念的なアートがどうあるべきなのかとか、専門家=プロフェッショナルとしてのアーティストとはどういう人であるのか、プロフェッショナルとしてのアーティストと日曜画家は、本質的に違うのであるというような議論をして来なかった。避けて来たのかも知れないし、してこなかったし、そういう議論をしたがる人も少なかったということが日本にはあったのではないでしょうか。
■01:00:50 岩渕
渡辺さんも私もそうですけれど、アメリカで人文系の教育を受けた人は観念論的な議論を延々とやらされるじゃないですか。
あと、器としての美術館がどういうものであるのか、社会の中でどうあるべきなのかと言ったようなことも絶えず議論をしていくわけなんだけれども。政治とアートとの距離、アートを政治的メッセージを表現する媒体として使う。美術館がそういう場所に使われることに学生はコンシャスだと思うし、面白いのは大統領選挙のときに、芸術系大学は、ハリウッドもそうですけど、民主党の地盤だったりして、大統領候補が大学にも来ますし、色々な美術館にも来たりということがあって、政治と美術の間の距離を感じないというか、同じレベルで議論するってことを感じるんですよね。日本ではそういうことがない感じがする。
どうしてもとりあえず、お金が必要だから、みんなにわかるように、表現が適切かどうかわからないけれども、テレビのバラエティみたいな形で、アートを少しずつ彼らは民主化していると思っているのかも知れないけれど、少なくとも私から見ると異質なものに変えてしまっているところに違和感をおぼえる部分がある。
特に、美術館は存続することが使命であると、欧米社会では定義されていると思うけど、一つテーマとしてあげたかったのは、米国の場合、憲法修正第一条が錦の御旗というか、あらゆることで、「表現の自由」、市民の権利としての「表現の自由」が出てくる。美術館という文脈の中では、芸術の表現としてならいろいろなことが許されるという前提があって、そのことを美術館の外に向かって説明するし、議論もする。日本ではなかなかそういうことが起きない。そういうところを憂えているわけです。内山さんと斉藤さんに聞きたいしたいのですが、そのあたり、いいですか。
■01:03:33 斉藤さん
日本の色々な公共政策各分野に共通する構造的な問題だと思いますけど、建物だとか、設備だとか、施設にはお金が付くけれども、そこを運営する専門家ですとか、人に回す予算が貧弱だ。あるいは長期的に専門知識にコミットすることに対して、お金を掛けられない。そういった問題が大学にもありますし、地方自治体にもあるのかも知れませんし、美術館にもあるのかも知れない。そういうことが積もり積もって、あるのかなと思います。
■01:04:25 内山さん
今の問いへの直接的な答えになるかどうか、わかりませんが、今日の渡辺さんの話にもありましたが、道具主義的な考えがありましたが、アートは道具なんだと、地域振興の道具でだったりとか、何がしかの経済的利益を得るための道具であって、アートを目的として捉えないのは確かに大きな問題であると思います。
一つには専門性のある人材がいないと言うことです。専門性、教養なのかもしれません、文化的そのものの価値を見出すことがなかなか出来ない。出来る人がいないってことですよね。
価値観の軸がその単一の軸になっている。全て経済に還元して、経済的利益で考えてしまう。
それとはまったく別の軸としての文化的価値というものを評価できない仕組み、これは政治的にもそうであるし、日本の社会としてもそうなのかも知れない。それの根源がどこにあるのかと言われると難しいのですけれども、一つには、教育の問題なのか、昔の日本の教養主義的な教育が良くない。大学をもうちょっとプラクティカルな教育をしておこうと話になりつつある。そういうのはある意味怖いな。価値観の一次元化を持たらしてしまう。教養を重視する教育が大事になっていくのかと思います。
■01:06:30 斉藤さん
教養ということでよく考えるのですけれど、米国の大学を見ていると、経済学がメジャーの人が、アートヒストリーをダブルメジャーとか、アートと他の学術分野との垣根が非常に低い。日本だと経済学部に入ると、もうアートのことは一切やらない。
数学専攻だけれども、専攻分野の一つとして、絵を描いている。そのような学生はわんさかいます。高等教育のあり方も少しは関係しているのかなと思います。
■01:07:15 上山さん
私も米国系企業に14年、米国にも6年住んで、アメリカと日本を比べれば、皆さんと同じ考えですが、日本のアートの現状が悪い方向に行っているのか、良い方向に行っているのか、全然変わっていないのか。と言うと、私は結構良い方向に行っていると思う。私は楽観論者なんですが、米国と比べて、日本のアートの状況は悲惨な状況であるかと言うと、他の分野よりましだと思います。
(岩渕)他の分野とは?
■01:08:20 上山さん
福祉、学校教育、環境行政とか、欧米と比べて、いまいちなのは金がない。ひたすら金がない。税金が極めて安い。米国も世界一安い、韓国も日本も安い。かつ、国民が豊かな気持ちになれない。税金が安い割には豊かな気持ちには慣れない。社会的インフラがまだ足りないので、なれないので、余裕がない。
米国に行くとすごいなと思うのは、ものすごくお金があるな。金に余裕がある。余裕がある社会がアートにお金があるのは、当たり前で、それと比べても仕方がない。
大英博物館、ルーブル美術館はすごいなと。彼らがどうして、蓄積したかは、ああいうやり方をしたんであって。
(岩渕)米国は財力にまかせて美術品をどんどん購入し、一方、ヨーロッパ諸国は、各地からかっぱらってきたんだから、逸品が沢山あって当然ということはありますね。
日本でアートの議論をするときに、西洋/欧米と同じものが日本にないから変だとか、あちらが正しくて、こちらが間違っていると言う議論はおかしいと思っている。しかし、比べるところから、進歩のヒントは山ほど出てきた。我々の状況より、あちらの状況がベターだというのは、双方の美術館へ行くと、認めざるを得ない事実のように思えます。
■01:09:44 上山さん
NPOの業界で起きたことを考えると、いいかも。神戸で震災が95年1月に起きた。全国からボランティアが集まってきた。みんな驚いたんわけですよ。素人が集まってきて、役に立たないと思ったら、公務員より、自衛隊よりはるかに役に立った。とってもいい気持ちになったんですね。政治かも含めてね。与野党問わず、あの人たちはとってもいいよね。
超党派でNPOに法人格を上げようということになった。ボランティアの人たちもしたたかで、飛躍するチャンスだと、どうやって飛躍するかというと、法人格をもらって、役所の下請けになろうと。下請けになって、契約相手になって、たくさん金をふんだくって、組織とインフラを充実させようと思って、NPO法を作って、公益法人改革と言う流れが出てきて、役所の外郭団体、役所の子会社が独占していたNPO業界に公益法人業界を粉砕してしまった。15年がかりと言うと早いと思うけど、陣地をじわじわ広げて、今NPOと言えば、当たり前になってしまった。あそこまで飛躍した。アートはどうだったかというと、明治以来引きこもっていた。上から目線の引きこもり、最低と私は思うだけれど、かろうじて、演劇の人はうまくやったと思うのね。演劇の人は役所の人とつるんで、、建設工事をして、あちこちにホールを作った。作っちゃえば、勝ちで、何か演じなくちゃいけないので、ソフトに補助金寄こせと言って比較的全国で金が回ってますよね。敢えて、毒舌/逆説で言っているのだけど。もっとしたたかにやれば良いし、流れ見ていると、現代アートとマンガとごちゃ混ぜにしている若者がいると言うのは、非常に素晴らしいことで、美術はいいと彼らは思い始めたわけですよね。
(岩渕) そうですね。ある意味かっこいいとは思っているんですね。
田んぼに現代アートを出しても農民から石投げられない時代になった。すごい進歩であって、何が悪いのだと私は言いたい。
■01:12:20 岩渕
日本と欧米を比較するのは意味がないというのは分るのですけれども、戦前と今を比較することはやっても良いのでは? 石橋財団とか、大原美術館とかは、米国の美術館の設立経緯と変わらないやり方で出来ているんですよね。今の状況は戦後起こったことですね。日本人が元々今のようなシステムの頭でいたのではなくて、元々は、ベンチャー・スピリットにあふれた人が地下足袋からタイヤを作ったりしたわけです。大原社会学研究所は、今でも法政大学と関係があると思いますが、そういう意味で、エンタープライズ的に、自発的に、色んなことを考えてやってきていたわけです。戦後は、単に運が良かったから経済成長を遂げ、その結果、何でもできてしまったということがあって、苦労してやってきたわけではないから、自分たちではどうやってやれば良いかの説明ができない。その結果としての今のシステムという部分もあると思うのですが。
■01:14:05 上山さん
利用されたくないアートの議論があるんだけれども、集客の材料じゃねえとか、教育の道具じゃないとか、言う意味は分かるんだけど、分らない人にお前は分らないと言っても、相手は分らないので、とりあえず、楽しいから来てねと言って、遊んでもらうしかない。
(岩渕) 入口としてはね。
それから、大学受験に役立つかもよ (笑)
(岩渕)とてもプラグマティックですよね。上山さんのアプローチは。
ということをやってね、実証した上で、裾野を広げて、ピラミッドの裾野を広げた上で、ピラミッドの頂点に蒸留水のようにホントのアートの議論が出てくるんだけども、そこでもむずかしいのは、日本の宗教のあり方と向こうの宗教のあり方は違う。政治のあり方の違いも繋がるんだけど、伊勢神宮に行くご神体があるのかないのか、誰も見たことがなくて、かつ、近寄れないないから、偉いということになっている。ルーブルに行くと、宮殿の中は誰でも歩き回ってあれだけのものが見られる。
我々皇居に入れない。見せないのが偉いと言うのが、東洋の文化で、中国もそうだけど、根源的にミュージアムと言う文化は根っこから相容れないところがあって、突き詰めると、皇居を全面開放して、あそこをエルミタージュのようにすると言うことをやらない限り、日本人の意識は絶対変わらない。皇室財産を正倉院だけでなくて、全部いつでも見られると言うようにしない限り、日本人はアートを信用しないと思う。
■01:15:48 岩渕
その辺りの議論はそろそろあってもいいのかなとも思うけど。金山先生、はい。
■01:16:00 金山さん
今の議論を聞いていて、私の意見なんですが、民主主義という話はさっき出ているんですよね。渡辺さんは非常に危機感がある。岩渕さんも真面目な議論をして来なかったという意見である。
民主主義という考えの捉え方があって、制度だとか、民主主義の理念を突き詰めていくと、規則だとか規律だとか、それと逆行する。理念を追求していくと、今の時代に合わせて、議論をどんどん絶えずして、緊張関係を維持していくことをしなければ、これまでの通り、なあなあではとてももたないだろう。そういうことを渡辺さんは仰ったのだろうと思います。。
■01:16:57 金山さん
アートの目的、渡辺さんのアートの目的を学んだんですが、アートは一体何だろうというと、僕はピラミッド構造になっちゃっていると思うんです。一番頂点に日本では国家が保護した芸術院の会員が入る。その下にずっと連なる下地があって、一番下の素人集団のアーティストたち、その中間には例えば、NPO話がありましたが、柳宗悦の民藝運動を評価しているんだけど、彼の民藝運動は大正の末期、昭和の初期にかけて、まさに、アートNPO第一号だと思うのですが、そういうのが、どこに落ち着くのかと言うと、今日の議論にはどこにも出てこない。この辺りで、アートのピラミッド構造をぶち壊して、アートの構造を再構成していくような発想があってもいいのではないか。
田んぼの中もアートの現場だし、あるいは、イギリスの場合は、ロンドンの博物館の学芸員は、Social Inclusionの活動で、刑務所に行って、囚人にアートの教室をやって更生させてますよね。あるいは知的障害者のアートの展覧会なんかもやっている。福祉だとか医療だとか、そういったものと結びついている現場がある。美術館なり、博物館でやっている。
ですから、その辺のことも含めて、サークルの中にアートを入れ込んでいって、もう一回議論することが大事かなと思う。
現場の美術館はそんなに遅れていないと思う。進んで活動をしているところはたくさんある。ですから、日本の美術館は捨てたもんじゃないと思う。新潟の場合はちょっと別でしたけれどもフロアにも美術館関係者がいらっしゃるようだし、またご意見をお願いします。
■01:19:15 岩渕
フロアからの意見を求める。
■01:19:55 フロアから
2000年前後に新しい美術館を作ると新しく組織替えをするとかいろいろやってきたんですけれども、今日の話を聞いて、最初の渡辺さんのプレゼンのテーマが僕たちにはアクチャルに面白いですね。地域系アートプロジェクトと美術館と言うのは現場として、ある主の危機感と言うか、すごいシンボリックに凝集しているところがあります。北川フラムさんとか、トリエンナーレとか地域系のものが伸びていく。我々のような1951年以来のミュージアムと言うのが、コンテンポラリーアートを扱っていながら、立ち位置に今後なっているのかが、非常に問題なんですよね。
たとえば、「もの派」を展示すれば、現代的な日本のモダンアートの正しいラインとして、認めてもらえるのか。
それこそ、荒川さんの学生さんではないけど、見に来ないような状況があり。
我々のクライアント、オーディエンスはもっと年齢が高い人たちで芸術院会員とかやらないと集客性が得られず、得られないと経済的に行政から突っ込まれてくると、で、それでアートと言うのを主張しているのに、一方で地域的な開発がうまく行ってるかのごとくに見えるというところがある。ただ、僕が思っているのは、長期的スパンと言うものが、行政的なあるいはミュージアムというものの本質としてあって、社会の中のデモクラティックの社会にその社会のインスティテューションが長期的なスパンのものを生成できるのか。やっぱり問われていると思う。
特に非常に激しく変化してきている。必ずしもペスミスティックではないにしても、若い方があれだけ儲からなさそうなNPOとかにあれだけ行ける時代は僕らなんか美術を始めたころのエリート主義的な感じとはずいぶん違うことはそういう社会環境になっていることはすばらしいのだけど、それが、今残せるのか。社会的な資産構造として残せるのかどうかが問われている。そういうところは皆さんどう思っているのかが面白いと思って聞いていた。
■01:23:35 岩渕
渡辺さんも発言したそうなのですが、まず、荒川さんに振らせていただいて…。学生にとっては格好良いという要素は必要なんでしょうか? ポンピドーセンターとか、ニューヨークの美術館は行くことじたいが格好良くて、行くと、そこに実際、質が高く、アートとしてちゃんと定義されたものが見られる。日本でも、若者が社会に関わることが世の中で最先端のことであったり、格好良いということが、導入部分やスイッチとして重要視されていると思いますか? そういう入り口から入ってきても、段々アートにに向かっていく人がある程度確保できるとは思うのですが…
■01:24:48 荒川さん
美大やアートマネジメント学科ではないので、大学院以上で少しずつ淘汰されていくと言うのはあるのか、若者の就業とかキャリアの問題は語り始めるとそれだけで終わってしまうのだけど、渡辺さんに吹っかけたのはアーティストになるわけでも、アートの専門家になるわけでもないと言うことを織り込み済みで、大学の4年間をアート活動ツールとしての経験値を高めたいと言うだけであって、その先は愛知に行って来なよと言っても遠いからとか、バイトがあるからと行かない。
参加することは楽しいし、経験としては蓄積されるけれども、太田さんの残せるのか、今後アートヒストリーとして残せるのかということはアートヒストリーの本筋から来たので、終わらず危惧するところです。
簡単に二元化なのかとまとめる必要もないですが、二元化してきているのか。彼らの考えるアートとこちらの考えるアートがあって、その二つが交わる部分がそんなにはないのかも知れない。大勢の中から次第に専門性と進んでいく一握りの専門家となっていく人はいるでしょうけれど、そうでない人たち、裾野が広がっていくエネルギー若者の活動は本気でアートで出身地をにぎやかにしたい、何かにぎやかにしたい、何か貢献したいという気持ちで、アートの専門化には案らないかもしれないけど、昨今言うプロボノではないですけれど、公認会計士になるかも知れない、生保に勤めるかもしれない。その合間にアートに関われるというパイプが今できつつあるという感触はあります。
■01:27:15 渡辺さん
ピラミッドの話がちょこちょこ出ましたが、岡倉天心のことを考えるのですけれども、彼は覆面レスラーのような人で、モダニズムのリングを立てて、赤コーナーと青コーナーに日本画と洋画を立てて、よっしゃ来い!と自分でマスク被って、一番先に上がった人間だと思う。よっしゃ来い、とプロレスという競技を成立させて、人間が集まって、人気競技になって、シンジケートのメンバーがやると、人が一杯きたりして、日本画/洋画というシステムの観点が米国人の視点から作られたり、そういった構造的な問題がある中から、日本のモダニティが生まれてきた。
逆にアメリカとかは、モダンの歴史をヨーロッパから払拭するため、簡単に言うと私は2002年からニューヨークの大学院にいて、ニューヨークに7年ぐらい住んでいたのですが、その中で、ヨーロッパのアートフェアに出したり、キュレートのコンペに出したり、その中で競争して、勝って来たと思うのですが、米国のヨーロッパに対するコンプレックスが2000年代初頭まで強くあったように感じています。MOMAが新しくなった辺りから、アメリカによる美術史の書き換えを意図的に感じるようになって、そういう文化的な闘争というものがすごくある中、日本はそのリングに一切上がれていない。私は米国内における、白髪一雄の初めての個展を手伝いました。白髪ぐらいの画家であっても米国の美術館に入っているのが、一点しかない。白髪がタピエと組んでしまったために、フランスの文脈で取り入られることになってしまって、具体がアメリカで評価されなかった歴史がある。それを説明責任をもって、これはこうなんだ、と説明できるキュレターがほとんどいないし、それでわたしのような人に依頼が来るのですが、その専門家を育てるインフラもない。その中でアルテポーベラ、ミニマリズムがある中で、日本のもの派だったり、具体が全然俎上に乗ってこない。マーケットもできない。私はその一線でやってきたつもりがあるので、これじゃ戦えないんだ、と。アートは専門性があって、歴史があって、構造があって、それがモダンミュージアムではないのか。
私は説明責任を果たそうと思ってやっています。誰でも加われて、アートに参加できるというのは、素晴らしいかも知れませんが、専門性を持った人間として、仕事をしたいので、そういったところを大切にしたいと思っています。
■01:29:55 岩渕
どちらか全部じゃなくても多分良いんだと思うんですよね。
どこの国でも多分そうだと思うし、アートの文脈で説明責任を果たす人は絶対必要だし、誰でもなれる訳ではない。その人たち、厳しいコンペティションの中で良い人が育っていくというのは、とても意味のあることだと思う。渡辺さんのようにきちんとした考えを述べるべきだと考える人が出てきていることは、むしろ新しいことだし、大事なことだと思います。
一方で、多くの学生が、格好良いことだったり、新しいことに関心があって、村上隆、奈良美智作品が、今までアートに関係ない部分にいた人にも受け入れたということもあるだろうと思います。そこから生まれる価値もあるので、どちらでなければならないという訳ではない。ただ、アートには専門性が必要な部分もあるのだということすら議論されてこなかった日本のアート界という部分があって、困っていないのだから良いでしょうということで今まで来てしまった。
■1:31:55 岩渕
斉藤さんに振りたいんですが、米国の学生は医学部の学生が絵を描いたり、指揮者なのに学位はバイオロジーだったり…指揮者は理系が多いですよね。そういうことが躊躇なく行える環境があるわけですよね。学内の文化施設が豊かだからということもあるのだろうけれども、自分の専門領域と関係ないことに、むしろ興味を持っていろんなことをやる傾向が強いように感じられるのですが、これは教育のストラクチャーとして、そういう風に仕組まれているものなのでしょうか? アメリカ人的な特性によるものなのか、社会の特性に負うところが大きいのか。その辺り、どのようにお考えになりますか?
■01:32:25 斉藤さん
多分に大学の個性によるものがあると思いますが、ハーバード大学に行けば、演劇専攻、映画専攻は学生がやりたくてもないですから、そういうこともあって、例えば、数学と映画を両方やりたいという学生はハーバード大に受かっても、イェール大に来たりする。後は地域として、映画産業を支えるためにUCLAを戦略的に作ったカリフォルニア州のような例もありますけど、学生かたぎとしても、好きなこを将来キャリアになりそうな役立ちそうなことを両方ダブルメジャーするとか、大学によりますけど、片方は副専攻にするとかが非常に柔軟にできるカリキュラムがあるということは、日本の大学のどちらかと言うと、硬直した大学入試時点で専攻科目が決まってしまうやり方に比べると柔軟だとは思いますね。
■01:33:27 岩渕
前にツイッターで述べたかも知れないけど、ハリウッドの俳優も東部の名門校の出身の人が多かったりしますよね。それこそ、ハーバード出身の俳優とかも結構いて、専攻としては英文学だったりするのだけれども、シェークスピアなんかやっていたトミー・リー・ジョーンズなんかもそうだったりします。
イェールはもちろん出身の俳優もすごく多いですし、後、西海岸だとUCLAとUSCとかもそうですね。アーティストになるのに高等教育は必要ないみたいなところが、日本は若干あるというか、ゴルファーなどでも才能ある人は学校に行かなくても良いみたいなところがあるような気がするんだけれども、逆にアメリカでは、自分の才能の分野ではないことについて学ぶことは人生のためには必要だ…と推奨するところがあるような気がする。どうでしょう?
■01:34:27 斉藤さん
アメリカも大学出ていない俳優いっぱいいるはずですし、そういう意味では、日本とそれほど大きな違いはないんじゃないかと言う気はしますが、例えば、私が大学院生だった頃もクレア・デインズが心理学専攻で教室にいたりしましたけど。
日本の文化発信ができていないかどうかという問題提議がさきほどありましたけれども、私の日本政治の授業とっている学生にはオタク文化から、日本の興味を持ったと言う学生もたくさんいますし、日本の映画は大学のカリキュラムの中での重要な一科目を占めていますし、ある意味で、米国、私は米国しか知りませんが、社会における日本文化の発信力と言うのは、逆に最近強くなってきたのかなと。
ただ、ある分野に関して言えば、発信力を強化しなければならないような実情はあると思うのですけれど。
■01:35:32 岩渕
時間がほとんどなくなってきたんですが、フロアから、質問があるようでしたら。
■01:35:45 フロアから
私は美術の専門には勤めていません。一介のサラリーマンで、美術が好きということで来たんですが、二つの問題提議を言いたいと思います。
一つは今の話の中で突拍子もないことを言うのですけれども、美術館そのものは解体されて行ってもいいんじゃなかろうかとなぜかというと、恐らく戦前派タニマチがしきっていた時代があって、それが官に徐々に変わっていくと、最近「ハーブ&ドロシー」という映画を見てふと気づいたのですが、要するに個人の人がきっちり集めて、絵を見せられるんだなと感じたんですね。
別に官に頼る必要ないんじゃないかとむしろ、持っている人が見たい人に見せるというネットワークこそいいのじゃないかとこれはちょっとここにいらっしゃる美術のことに従事している人にとってはある意味不幸なことになるのかも知れないんですけれども、これに関して、意見のある先生方がいらっしゃったらお聞きしたいというのが一つ。
それと教育の面で言うんですが、私は美術は好きですが、美術館は大嫌いです。何故かと言うと触れないから。高価なものを触ろうという気はありません。よく振り返ってみると、日本画というものをいろいろ言うんですが、日本画の材料はみんなわかんない。それから、美術館の先ほどの事件のように実際の絵が破損したと。
我々日曜画家で描いた絵を修繕するということを一つの拠点として、美術館でそういうことを教えるとかでですね。例えば、いわゆる子供、教育と言っていいんですが、今これから美術に関心持とうとするものを美術館でプロパガンダしてですね、引き入れてしまうと、それが恐らくこれから、美術をああいいんだなという形で予備軍にするというかの方策は何かあってもいいんじゃないかなと。
片方で、美術館解体といいながら、美術館に対する方向付けをもってますし、どういうんですか、最近、タニマチ、メセナという事で、開催していますけれども、入場料が異様に高い。またあえて言うのなら、私の所属している会社でも一度開催もありましたけれど、何で高いかはいえません。ええとそういう過程を知りたいんですけれど。
それはミニマム中たちに納まっていくのではないかと、あくまでも、私の仮説ですが、今の私の券に対して、先生方の意見がありましたら、お願いします。
■01:38:35 岩渕
上山さんに振ろうかなと思いますが。大阪はそれこそ、施設ではなくて、街自体が美術館だと言っている知事がいたりしますが、その辺と、タニマチが強かったエリアだと思うんで、その辺りもいかがですか。
■01:38:50 上山さん
大阪に谷町というところがあって、そこの人たちがお金を出すから、タニマチという名前になったんですが、今のご意見は大賛成です。地方の公立美術館のなかでも不調なところは、市民が特にほしいと思ってもいないのに、横並びで美術館を行政がお金を出して一部の特殊な愛好家と特殊な学芸員だとかに任せた結果、漂流しちゃっている状況なんです。
どうするかと言うのは、もちろん何とかしなけりゃいけないんですけれど、論理的な一つの研究者的、第三者的な言い方しちゃえば、ここで一回解散しちゃうというのはありかなと議論は、非公式だけどやったことだあるんですよね。
と言うのは、誰のための美術館かわからなくなっちゃっているんですよね。あのテーマが非常にはっきりしているんだったら、棟方志功×青森みたいであれば、ね、まあ、郷土の誇りだし、美術分からない人もそれがあるってだけで嬉しい。そういうのだけなら、いいんだけど、なんとなく、第何位で総合百貨店的なものがあるんですよね。個々の作品を見ると別に悪くないし、30億費やしたにしては、存在感が全くない。みんな真面目なんだけど空虚なんですよね。そういう状況なんですよ。
意外とこれは一回解体的出直しをした方がいいじゃないか、あまり答えを急がない方がいいじゃないかと思っているんですよね。子供たちに見せてみたり、何か小学校で展示してみたり、色んなことしながら、色んな市民がこれをどうしたいのかと考えてもらう時間見たいのが結構必要なのかなと言う気が私はしていて、それで、全国の状況に照らすとあのう、それなりにアートは必要だとコンセンサスは出来ていると思うんですよ。福祉か?アートか?という政治家は減ってきたと思うんですよ。アートは何となくこれからの日本の社会にとって必要だとそこはかとないコンセンサスはあるし、企業の人たちもデザイン性がない商品はやっていけないってことは分かって来ているしね。
大きな流れとしてはフォローの風が吹いているんだけれども、やはり閉じこもり系だと思うんですよね。つまり経済Versus文化と言う議論を不必要に持ち出してみたり、今や経済が文化に依存していると言うのは当たり前になっているのに、心の豊かさは金銭の豊かさとは違うと言う80年代風の議論をやっている専門家がいたり、完全にずれているともう。感覚がずれている。
それから、あえてお二人(岩渕と渡辺さんのこと)がいるから絡んじゃうけど、欧米はすごいのに、日本は遅れているというのも、これはやっぱり戦術的にはすごい正しいんですよね。わが国は遅れているから、政府はもっとキャッチアップする予算を寄こせみたいな戦術的には、その結果アートは注目を浴びたり、キャッチアップと言う意味でお金が取れたりしたんだけれども、それは西洋美術が合って、日本の美術とは違うと言う構造の上に成り立った議論なんだけれども、色んな分野が欧米キャッチアップ型というロジックが破綻しちゃっているんですよね。金融業絵画典型ですよね。リーマンショックの後、投資銀行モデルと言うものは完全に否定されてしまった。その結果、また、世界最大の郵便貯金が見直されたりしているわけですよね。
だからその種のゆり戻しが起きている中で欧米が良くて、日本が駄目だと言うロジックは戦術的にあまりうまく行かないんじゃないかと言う気がするんですよ。欧米の中に結構本質的なものがあって、まともに議論していると言うのは事実なんだけれども、あのちょっとこれぐらいにしておきましょう。
■01:43:22 岩渕
ありがとうございます。
本来の芸術の議論というのはプラグマティックなものではないと思っているのですが、上山さん的な議論を上山さんの土俵ですることももちろん出来るし、日本という固有の社会と文化を前提とした議論はもちろん可能です。が、今日の我々の役割としては、プラグマティックではないのものの必要性を指摘するということが一つの目的でもあったので…ちょっと渡辺さんに。
■01:44:00 渡辺さん
まず、リーマン・ショックの例が出ましたが、マーケットに関して言いますと、リーマン・ショック以前、そしてリーマン・ショックで破綻した直後のオークションに出ているんですが、リーマン・ショックの時に乱高下した作品と言うのは、三十代の前半から後半にかけてのミッドキャリアのアーティストの、投機的に扱われていた作品です。つまり、金融資産として作品を買う、と言うトレンドが大体2000年ぐらいから生まれてきて、アートのファンドみたいなものができて、それとギャラリーが結託して、まあ金余りの状況と言うのがニューヨークにあった。リーマン・ショックの話が出ましたが、それでもちろん破綻したマーケットがあって、ミッドキャリアでマーケットで立ち回っていた人は苦労しましたが、セカンダリーの巨匠作家の値段は上昇し、バブル状態になっています。
リーマンの話が出たついでに言いますと、地域系のプロジェクトでは今、イギリス型のアート・コンサルティングみたいなシステムが、こんな提示をしています。例えば青少年のダンスプログラムみたいなことをやって、犯罪率が減少したとします。例えば、50件の犯罪の減少があった場合、地域社会にとってこれは500万円のメリットがある、故にこの500万円を地域社会からアート団体へと還元すべきだ、と。それこそアートプロジェクトのデリバリー化が進んでいて、このモデルはリーマン・ショックの後に出てきた。金融派生商品をイギリスが作って日本に輸出しているという構図があって、それに追随しているのが今の行政です。もしもリーマン・ショックという破綻というものによって西洋型のファンダメンタルバリューが崩れていると言うのであれば、それを倣っているアートプロジェクトも批判しなけ ればならないと思います。
■01:45:39 岩渕
内山さん、どうですか。頭を打ち振っておられるので。
■01:45:45 内山さん
非常に私も勉強になるんですが、「美術館解体」と言うのは私はとても面白い議論だと思うんですけれども、今まで色んな政策の話をするときに、官か民か、政府かマーケットか・民間か。ところがこの二項対立と言うのはやっぱり見落としている点があるんです。最近政治学・社会学に言われているのその官と民ではなくて、市民社会、シビル・ソサエティと言うのがある。実はマーケットのメカニズムに任せちゃうのでもなく、その行政の論地に任せちゃうのでもなく、市民社会が芸術を支えていくって言うのが大事だと思うんです。まさに市民が我々のものとして、役人にやらせるのでもなく、企業にやらせるのでもなく、我々のものとして、アートを支えていく構図、これが大事になってくる。それを見直すという点で官がやっている美術館を見直すというのは一つの契機になるかなと思いますね。
あと一点、最近アーツ・カウンシルを日本でも作れと言った議論が文化庁辺りからなされているらしいんですけれども、イギリスは政権交代があって、相当アートに関する予算が減らされたけれども、アートカウンシルは機能しているらしい。それは市民社会がそう言ったものが、それを支えていることですね。
まさに我々の手にアートを取り戻すと言うことは市民社会をキーワードに考えられるのかなと言う気が致します。
■01:47:22 岩渕
ありがとうございます。
10時までには終わらないといけないと言うか、ここも片付けて鍵をかけないとならないので、活発な議論になってきたところに恐縮ですが、ぼちぼちラップアップをしなければなりません。
■01:48:18 フロアから
海外に大きな展覧会をするときに、私も同行するんですけれども、ルーブル美術館にしてもこないだやったプラド美術館にしても、こちらが並んでいるのは主催する側の学芸員さん、あとが新聞社の事業局のスタッフたちですね。向こうに並んでいるのは、オルセーでも、プラドでも、ルーブルでも、皆同じですけれど、担当キューレターがいて、輸送担当、図録担当、展示担当、全部館のオリジナルの正職員のスタッフのきちんとセクションの専門家が並ぶんですよ。向こうがそういう完璧な体制が揃っていて、日本の国立美術館はそういう体制が揃っていなくて、新聞社がほとんど代行しているのが実情ですね。
相手のキュレーターや館長さんにお話を聞いても、相手の美術館の名前を言わないんですよ。日本の国立美術館の名前を言わないで、新聞社の名前をだして、パートナーシップを非常に私は信用していて、いつも仕事ぶりを嬉しく思っている信頼関係を続けていきたいと仰るんですよ。それを横で聞いていて、非常に不思議な眺めだなと思っていて、ただ、新聞社がイベントやることについては、学芸員の方も忸怩たるものであって、内心嫌がっている人もたくさんいると思うんですけれど、ただこれ、欧米型になった方がいいだろうなと思っているけれども、日本の場合は新聞社が明治以降色んな形でイベンターとしてやってきたという経緯があって、極めてノウハウが蓄積されていると言うにほんてきな発展をしてきたので、それは、日本的なシステムとして、認めざるを得ないのかなと思っています。
それに対して、国が出すね、例の補償制度の問題にしましても、国立美術館、博物館でやっている展覧会は新聞社のテレビ局の事業ではないか民間の展覧会の事業に何で国が補償しなければならないんだという財務省の議論がって、これでいつもストップするんですね。そう言うんだったら、あなたたち、これ全部でやんなさいよと作品の貸し借りから、保険金から、全部新聞社とかテレビ局のスタッフがノウハウでやっているじゃないか、それをいうんだったr、しょうがないでしょう。だから、それならば、民間がかなり関わっているんだけれども、国としても、こういう支援はできるんだから、やりましょうやろいう形に日本型のシステムを現実対応してやってもいいんじゃないかと思っています。
あと一点言いますと、美術館とアートプロジェクトの逆転現象というのが、今年顕著にありまして、渡辺さんの仰いましたように、単位が違うんですね。行政の出すお金の単位が違うんですね。それが非常に不思議なことに思っていまして、愛知トリエンナーレとか、瀬戸内とかが大成功になっていて、知事が音頭とりをしていまして、これは先導として、あっちこっちやろうとする。但し、どちらも良く考えると美術館が核になっているんですね。直島のいくつかある美術館、高松市美術館が、愛知県美術館、名古屋市美術館が核になっている。来年の横浜トリエンナーレも横浜美術館が核になる。逢坂さんはやっと関われる、自分たちのスタッフが強みになると思うと語っていて、これを見逃してしまうとアートプロジェクトは何でもいいという話になってしまって90万人と言ってますけれど、瀬戸内の実質的なチケットの売上は7万とか、9万、10分の1なんですよ、実質的なチケットの売上は。
90万といっているのは、二十何箇所のカウンタで数えて数を足し上げているだけで、そういう数字が一人歩きするのは非常に危険だと思います。
それは僕は書こうと思っていますけれども、そういうところを良く見ていてですね。アートの地域イベント、みな若者が一杯来ますし、その流れは無視できないんですけれども、その内容をもっと分析しないとみんなそっちに流れてしまってですね。それがいいんだいいんだという話になってしまうと、美術館の存在は骨抜きになってしまう。
私は美術館は解体すべきじゃないと思っていますので、美術館を核にして、もっとアヴァンギャルドなことをやっていけば言いと思っているし、水戸芸術館もやっていましたしという風に思っていますという感想。
■01:53:00 岩渕
最後に、ツイッターでどうしてもと言う質問・コメントがある?
■01:53:15 山本
ツイッターでも意見がきていてですね。私も追い切れていないのですが、大きく三種類ぐらいに分かれるのかなと思っています。
一つは道具でもいいじゃないかというご意見が多いです。
道具にされている。で、僕らも利用させて頂いている。みんな楽しそうだからいいんじゃないかという意見。最近のアートプロジェクトは日本でアートが生きる道だったんじゃないだろうかというような指摘があります。
荒川さんの話とつながるんですけれども、若者たちの現実とちょっと違うじゃないかと言う指摘もありました。
二番目が専門性という言葉が出てきましたけれど、専門性という言葉の定義は何かということを明らかにしないまま、議論が進んでわかりずらいという指摘がいくつかあります。
三番目がアートと教育なんですけれど、日本のアート教育では、アートに興味を持つようになるのは無理だと言うご意見ですね。興味を持つような教育がなされていなくて、基盤がないところに興味を持てと言ったところで無理な話ですとか、根本的にアートの作者が何を伝えたかったのかと表現したかったのかを無視しているような気がするというような大体この三つぐらいのご意見が多かったです。
■01:54:50 岩渕
ありがとうございます。
一つだけ…。専門性の定義をきちんとしていなかったという指摘について、プロフェッショナルという意味だと思うのですが、渡辺さんの文脈の中での定義をお願いします。
■01:55:06 渡辺さん
まず、美術館であれば、キュレーターが展示を作る。ファンドレーザーがお金を集める。アーカイビストが記録を作って、PRのパーソンがいて、コンサバターがいて、という役割分担があって、ミュージアムと言うのが成立していると思います。逆に例えば、キュレーターがPRをしていたら、展示が作れなくなってしまう。そういう分業するというのがコラボレーションだと思っていて、そういう専門性を持ったスタッフを揃えて先ほどあったように分業してプロジェクトを進行していく中で、私はプロの、展示を作る側のキュレーターになりたい、と思っています。
■01:55:44 岩渕
ありがとうございます。
いよいよ時間的にギリギリと言うところですので、これでラップアップしたいと思います。今日いらしている方は、美術館、博物館など文化施設でお仕事されている方も多いので、海外の美術館をご存知である方もたくさんいらっしゃると思うんですが、日本の美術館は人がいない、スタッフの数が少ないと言うことがよく話題になりますよね。ニューヨークの美術館だと、メトロポリタン美術館は警備員までが美術館の職員になっているので、2000人を超えるスタッフがいるんですよね。そんな大人数の所帯を養うなんてできないって議論はもちろんあるんですが、一方で芸術はそれだけの雇用を生み出しているわけです。専門職の市場がそれだけあるわけで、全米の美術関係の職員のジョブサイトとかを見ても、エントリレベルから全部入れると数千件の求人募集が常時出ているんですね。
日本だと学芸員の募集、特に、終身のポジションの求人といったら、年に5件ぐらいしか目にしないような気がします。若い人には仕事がほとんどない。仕事のマーケットとして、もう少し、アートの専門職市場を作っていく努力をする必要があるのではないか。それによってまた、新しい経済循環を考えることもできるんじゃないかなということを思うので、その辺りについては、これから議論していきたいと思います。
今日は二時間と言う限られた時間の中で、多岐に亘る文脈での議論になりました。本日はこれで終了しないとならないのですけれども、アートを支えるプラットフォームについての議論は、これからも継続的に行っていきたいと考えております。
荒川先生とご一緒に戦略設計中なんですけれども、上山さん的な日本固有の文化の中でのミュージアムをどうするかという視点、アートのプロジェクトをどうするかと言う議論、もう一方の「芸術とは何か」というそもそもの話を同時にするにはどうしたら良いか…。一緒に議論するためには、クリエイティブ産業論、もしくは、クリエイティブ・シティ論で括るしかないだろうということで、「創造都市とグローバル経済」という文脈で、美術以外の方たちに加わって頂いて、アートのインフラをどうしていこうかという議論を継続的に行って行きたいなと考えております。
今日は上山さん、内山さん、斉藤さん、金山先生、荒川先生に議論に参加して頂いたんですけれども、現代美術の現場で仕事をされている渡辺さんにも積極的ご発言していっていただきたいと思いますので、今後こうした議論を繰り返しながら、来年度、4月以降、大きなシンポジウムに持っていければと思っています。
日本ではシンポジウムやカンファレンスをやることが目的になってしまって、そこで何かを生み出すと言うことがなかなか起きない。シンポジウムの予算がついてしまうと、それをやることが目的で終わることが多いので、実のあると言いますか、結果の出る議論をしていきたいと思っています。今後も皆様にご案内をしながら、議論を進めて行きたいと思いますので、是非参加して頂ければと思います。
今日は仕事帰りに遅い時間までご参加いただきまして、どうもありがとうございました。スピーカーの皆さんもありがとうございました。事務局から何か一言ありますか。
■02:00:26 山本
皆様長い間お疲れ様でした。ちょっと議論が白熱してしまって、なかなか皆様にご質問などできなかったから、また次の機会もありますので、メールなど、あと今これから個人的にお話しして頂くのでも良いのですけれども、議論を続けていければと思います。では、最後にアンケートをお配りしていますので、お書きになって、この札と一緒にスタッフに札を掛けている者にお渡しください。本日はどうもありがとうございました。
昨年11月24日に行われたイベント「アートと民主主義、そして日本の未来」について、開催後動画をアップしました。
しかしその後、当日USTで参加してくださった稲盛隆穂さん(twitter ID @jackyie さん)がなんとイベントの全内容を書き起こしてくださいました(!)。
書き起こされたテキストはMCDNで利用していただいて構わないとおっしゃってくださったこともあり、ここに全文を公開することにします。(個人名等一部省略している部分があります)
興味はあったけど、2時間ある動画は見られなかった……という方、よくわからなかった部分を確認したいという方、その他、このイベントを今知った!という方も是非ご参考になさってください。
動画のタイムラインも明記していただいているので、ここが動画でみたい!という部分が有る方はあわせて動画もご参照ください。
最後になりましたが、稲盛さん、本当にどうもありがとうございました!!
※ ※ ※
【アートと民主主義、そして日本の未来 ~秋の夜会@ちょっと拡大バージョン~】
■00:02:38 山本
皆様、お集まり頂きましてありがとうございます。定刻になりましたが、まだいらっしゃられてない方がありますので、3分ほどしてから開始したいと思います。もう少々お待ちください。
■00:05:20 山本
では、皆様、お忙しい中お集まり頂きましてありがとうございます。MCDN事務局長の山本です。よろしくお願いいたします。
本日はMCDNイベント「アートと民主主義、そして日本の未来」にご参加下さりどうもありがとうございます。
本日は皆さんへのメールなどにも書かせて頂きましたけれども、オフ会のノリでカジュアルに議論できればと思っておりますので、プレゼンテーション等ありますけれども、皆様何かご意見やご質問等あったら、その都度発言して頂ければと思いますので、よろしくお願いいたします。
※山本から、スピーカーの紹介を行う。向かって左からご紹介します。(岩渕から遠い方から)
・荒川裕子さん(法政大学キャリアデザイン学部教授) 西洋美術史、文化組織マネジメント
・金山喜昭さん(法政大学キャリアデザイン学部教授) 博物館学
・斉藤淳さん(イェール大学政治学科准教授) 日本政治、比較政治経済学
・内山融さん(東京大学大学院総合文化研究科准教授) 日本政治、比較政治研究
・渡辺真也さん(インディペンデント・キュレーター) 現代美術
・上山信一さん(慶應義塾大学総合政策学部教授) ミュージアムマネジメント、地域再生、経営戦略、行政評価
・岩渕潤子さん(慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授/MCDN代表)
です。
これから始めますのでよろしくお願いいたします。
■00:07:08 岩渕
岩渕潤子です。こんばんは。今日はお忙しいところお集まり頂きましてありがとうございます。またスピーカーの皆様も今日は本当にツイッタで出会って、本当に顔を合わせるのは今日が初めてという斉藤さん、内山さん、渡辺さんも実は直接お会いするのは初めてですし、会場でお世話になっている金山先生にも直接お目にかかるのは初めてということで、初めてというメンバーでの議論になります。今日の会場を提供して頂いている法政大学キャリアデザイン学部の荒川先生から一言頂いてもいいかな…と言うことで、ご挨拶をお願いします。
■00:08:00 荒川さん
法政大学キャリアデザイン学部の荒川と申します。岩渕先生は皆さん、多分ご存知でしょうから、岩渕先生の無茶振りというのは慣れていらっしゃるかなと思いますが、急遽このたび、法政大学で会場をご提供して、皆様方と情報交換したり、ネットワーキング構築の機会にできたらと期待しております。よろしくお願申し上げます。
■00:08:40 岩渕
ありがとうございました。毎度のことで恐縮なんですが、今日も予定が色々立て込んでおりまして、時間がびっしりの中に色々議論をして、できるだけフロアの皆様の中からも質問をお受けしたり、あと本日はsoranoさんがいらして下さって、Ustreamで中継しておりますので、ソーシャルストリームから質問が入ってくると思いますので、それにもお答えして行く形で行きたいので、てきぱき進めて行きたいと思います。
そもそも今日、こういう機会を持とうと思った理由と言うのが、色々な問題が美術を取り巻いてあるということは皆様ご存知のことと思いますが、そういった中で、アートマネジメントですとか、文化政策ですとか、文化資源学ですとか、色々そういう領域が近年できまして、そういった問題を解決しようと我々は議論をしているんですが、なかなか美術以外との接点で、社会全体の枠組みの中でアートの価値とか、文化施設について議論する場所がなかった。それで、たまたま斉藤さんですとか内山さんとツイッタで大学経営論の話をしているときに米国の大学が、私立大学が非常に力を持っていて、独自の財源を持っていて、卒業生やその他、地域の有力者だとか、財団だとか、企業からの寄付金で、非常にダイナミックに運営されているというお話をされているところに、美術館もそうですよとお話をして、それで話が盛り上がったものですから。斉藤さんが11月に日本に来られるらしいということがあって、一つのミッションとしてはイェール大学の学生のリクルートをされに来ると言うことだと思うのですが、私が直接お会いしたいと思って、無理にこういう機会を作らせて頂いて、斉藤さんのツイッタのライン上に出没していた内山さんですとか、お声をお掛けしまして、いらして頂くことになりました。丁度時期を同じくして、渡辺さんが「地域系アートプロジェクトの構造的限界と日本美術界の病」ということでツイートしたことをツギャッタの方にまとめられたお話が今日の議論をスタートする出発点としてはすごくいいんじゃないかなと思ったので、渡辺さんもツイッタで出没しておられていたので、お声をお掛けして、今いらして頂いた上山さんは元々存じ上げているんですが、やはり行政改革、事業評価、文化施設の評価をずっとやって来られているという経緯でお声がけしております。文化施設や動物園にもご興味があると、皆様は多分、大阪市の行政改革を取り組まれたり、今は大阪府橋下知事のブレインとしてご活躍ということをご存知と思いますが、直接というか、必ずしも文化だけでない行政の枠組みからお話を聞かせ願えればと言うことでいらして頂きました。
金山先生は、新潟の美術館で蜘蛛の巣が張ってしまった事件と言うのがありまして、その後の経緯の中で上山さんとご一緒に評価と事業改善に向けた報告書がついこの間出たばかりなんですが、博物館学がご専門とのことですので、今日のメンバーの中では美術館とか博物館など、施設がご専門と言うことです。
荒川先生は、私は前任校で同僚ということで、アートマネジメントがご専門でもあり、無理を言って三週間前にお願いしたのですが、こちらの場所をご提供頂くということで、荒川先生には大変感謝しています。どうもありがとうございます。
それでは早速なんですが、渡辺さんに冒頭の問題提起としてプレゼンテーションということで、パワーポイントを見ながら、ご説明を頂きたいと思います。
■00:13:45 渡辺さん
プレゼンテーションの際、使用されたPPT
11/24/10「アートと民主主義、そして日本の未来」使用PPT
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(当初、渡辺氏のマイクで音声が拾われていない)
私の連続ツイート「地域系アートプロジェ クトの構造的限界と日本美術界の病」から抜粋した簡単なスライドを作りましたので、時間も限られていますので、10分間で簡単に説明します。スライドをご覧になっていてください。
今回のプレゼンテーション内容ですが、東京歴史文化財団、東京文化発信プロジェクト室、東京アートポイント計画での体験をまず話します。今日は東京歴史文化財団の職員さん、東京アートポイント計画のアドバイザリー委員の方、共催団体の方も来て頂いていらっしゃるので、機会があれば、お話が出来ればと思っています。
二番目にアートが道具として使われている現状、三番目に根本的な問題として取り組まねばならない課題。
このプレゼンテーションが終わってから、アートが道具として使われている現状について皆さんとお話が出来たらなと思っています。
アートポイント計画での体験を簡単にお話します。行政側はアートそのものよりも、アートをどう「使って」都市機能の不備を補うか、に興味がありました。私はその部署の中で、教育プログラムと水辺に関するアートイベントを担当しました。水辺の民間団体、水辺を活性化したいと思っている民間団体は、水辺を活性化したいと考えています。そして、東京都も水辺を活性化したいと考えています。しかし、東京都の水辺が厳重に管理され過ぎていて、立ち入ることが出来ません。そこに何とか、風穴を開けることができないか、と言うことを考えた時に、水辺の団体側からは東京の水辺でクルージングをしたいと思っても、桟橋の使用許可が下りない。そこで、そのエクスキューズとして、「防災クルーズ」と言う名目を使って、防災桟橋の使用許可を区から取っている、と言う現状があります。こういう背景から、行政側と水辺の団体の双方から「防災」や「アート」という言葉が目的達成のための道具、マジックワードとして引き出されるという傾向がある。
私は「防災とアート」と言うプロジェクトに関してキュレータとして関わりました。こちら東京都が主催して、東京都の生活文化スポーツ局のサテライト部署として作られた東京文化発信プロジェクト室のアートポイント計画という部署なんですが、そこと「共催」をする一般の団体が、東京都の他の局から許可を得ることを求められます。東京都の港湾局からは許可を得ようとしても許可が下りない中で、私たちは何とかそれを進めるために、テストランをするのですが、テストランをして、ハーバーに船を安全に停泊させることができても、安全に停泊することができた船の「安全性」を確認するための書類作りを求められます。仮に本当にこれが罷り通ってしまうと、仮に東京で震災があったことを想定したアートプロジェクトとして、道具として使われているものであるにも関わらず、想定した事態が本当に起こった時にどうなるんだ、と言うことを考えた時に、かなり危機的な状況になっている。これはちょっと下に書いたのですが、阪神大震災のときにスイスからの救助犬が入れないと言う事故がありましたが、人命を守るためのルールが、いつのまにかルールを遵守することが目的化し、人命を守れない、と言う逆転現象が起こってしまう、そういう現状があります。
ちなみにこの部署は単年度会計をやっているプロジェクト室でして、資産を持つことが出来ませんでした。年度末になると予算が余った場合は必要でもないものにも予算が使えたりするんですが、例えばテーブルマットは購入すると資産と見なされてしまうため、購入できないでレンタルになります。結果的に多くの税金が無駄になります。あとで関係者の方にも伺いたいのですが、個人的に思ったのはバランスシートを使った複数年度会計をすれば、こういう問題は解決できるのでは、と現場が思っても、現場では変える事はできません。
行政の方たちは自分たちのデスクワークはかなり真面目にこなしています。しかし書類仕事が膨大過ぎてしまって、書類を常に作り続けても終わらないという問題があります。それは恐らく資金に関する問題が発生することがあって、書類主義を徹底してしまった結果、書類があまりにも膨大になってしまった。常に「書類主義」ということが、都の中で言われている中で、それを皆さん毎日やっている。それをやっていく中で体力と時間をかなり奪われてしまっています。この都の監査と同じ基準を、共催相手のNPO法人や一般社団法人に求めます。つまり、二人とか三人でやっているNPOに対しても都と同じ監査基準を求めると、ほとんどの団体は根を上げてしまいます。そうすると、アーティストたちは、「本当に官僚は頭悪いな」と思い、私が間に立たされてしまう、ということがありました。そもそも地域市民のためであったり、アートということを謳っているものが、いつの間にか官僚の自己目的化してしまった書類作りのようなものになってしまって、それがずっといる間にわからなくなってしまって、そのまま思考停止になってしまう状況があるな、と思いました。
この問題が発生しても、問題の原因が追及されないため、同じ問題が繰り返されて、それが制度的な問題であっても、政治を動かして制度を変えることが出来ない。
税金に関するアカウンタビリティにしても数円狂っているだけですべてやり直し、という書類になるですが、これをNPO法人に求めるのはちょっと酷だと思います。税金に関するアカウンタビリティに関しては一円単位の会計を明朗にすることではなく、何にどう使ったかの説明責任であるべきだと私は考えます。
日本の行政は世界のアートとリンクした国内インフラの整備が急務です。更に日本の閉鎖性を打ち破り、海外との情報格差を埋めるためには多言語発信が必須です。しかし、東京文化発信プロジェクト室は海外に郵便物を送ったことがありませんでした。左側にスライドが出ていたんですが、これは水辺のアートヒストリーという冊子を私が作りまして、その時に使ったデータなんですが、海外の画廊とか色んなところからコーテシークレジットを無料でもらってきて、お礼の意味を込めて、何冊か海外に、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカに送ったんですけれど、その時に、「前例が無い」と言われてしまって、それはまずいので、「フェデックスのアカウントを作りませんか」と提案をしても、受け入れてもらえない。
人材育成レクチャーを8つやったんですが、その中で一つでも良いから英語でのレクチャーをするべきだ、それで、東京の文化を海外発信すべきだ、と言う意見を述べても却下されてしまいます。
それで私の意見ですが、英語での教育や英語での発信が出来る人材が日本にいるにもかかわらず、英語発信することが出来ないと言うのは日本にとって多大なる損失だと思います。
アートは世界で最もグローバル化した領域の一つです。しかし、グローバルなアートの概念を理解するための美術教育がなされていない為、日本のアートが完全にドメスティックな文脈に成立してしまっています。このドメスティックな文脈は外部のアートとうまく接続することが出来ないため、海外での流通が出来ません。
すなわち、アートが近代的な資本・知識・労働の集約物としての価値を持つことが出来ません。下の図にあるように、アートの集約的価値から、作品の流通が生まれ、そこから市場価値が高まっていくといわゆるマーケットの構図が生まれないという現状があります。
■00:21:33 渡辺さん
二番目に行きます。アートが道具として使われている現状について。
いわゆる地域系のアートプロジェクトを「道具」とした街おこしが主眼です。アートのルールが根本から消滅しています。アートプロジェクトの事後処理なんですが、作品が残らないとアートヒストリーも蓄積されない、昔あった「もの派」のような状況が、変奏曲として繰り返される。
もしも、街おこしをしたいのであれば、東京への中央集権をやめて、地方自治を優先する政治的判断を国民が取るべきだ、と私は考えます。
アートは専門性が要求される分野です。しかし、地域系アートプロジェクトに関わる行政の役人はアートと関係ない部署から配属されます。例えば、水道局の部長さんが文化の部署に来るわけです。そうすると、文化のことは分からないわけですね。行政の担当者と言う人がほぼ毎年変わってしまうため、その団体であったり、プロジェクトの継続した話し合いが行われず、ノウハウの蓄積がなされません。
つまり、ややもすると、変わらないことを前提とした役人のアリバイ作りが目的化してしまう。行政側から文化に取り組む人の専門性を高め、固定することが出来ないでしょうか。
街おこし的な地域系アートプロジェクトが大変盛んになっています。現在ホワイトキューブ系のアート展、今まで私が作ってきた現代美術のアート展なんですが、数十万円の助成金しか財団からはおりません。ところが地域系という名前が付くと数百万円という助成金が下りると言う現状があります。
そうすると、そもそも、文化の発展・育成を目標にした公金からの助成がファインアートの育成を妨げてしまって、アーティストが地域振興に借り出される、という本末転倒な事態が発生します。
そして、皆さんご存知かと思いますが、日本のアート界は非常に狭いので、仮に構築的な批判を加えようとしても、それが非常に加えにくい。どういうことかというと、友人、知人、お世話になっている方が皆関わっているんですね。その村社会的な中で、いやこれじゃまずいんじゃないか、という意見を発したり、受け入れてもらうには厳しい状況にあります。
しかし、アートプロジェクト的なるものに構築的批判を加えなくては、日本のアートを支える基盤がメルトダウンしてしまう、と私は考えます。根本的な問題として取り組まなければならない課題です。
日本における地域系アートプロジェクトの最大の構造的限界は、アートをアートたらしめいている概念的な思考が習得できていない点にある、と私は考えます。アートと言うのは、そもそも明治以降の日本が西洋近代から概念として受け入れたものですが、今日本がポストモダンと言う時代に差し掛かっている中で、そういったモダンのコンセプトがメルトダウンしているんじゃないかな、と私は感じます。
それを考える時にちょっと立ち戻ってみて、カントがファインアートとして定義している目的なき合目的性、つまり、「アートをやる」ということが目的で、それゆえ、アートをやるということが道具になるということが論理的にあり得ない、ということに一回立ち戻るべきではないかなと私は考えます。
評価軸に関してです。「なぜ、これがアートなの」という質問が現代美術によく浴びせられますが、プロのアーティストやプロのキューレータはそこに対して、説明責任を一番重く負うべきだと考えます。更に行政の説明責任として、今までの文化庁の奨学金のように成果報告も十分に行われない、と言う状況もまずい。しかし、アーティストの活動は10年単位のロングランで見なければならない、結果が出ないということも多々あります。評価軸をどうしようかと言うことですね。
これは私の意見なんですが、拡大しすぎた東京は完全に制度疲労を起こしています。日米安保が締結後、自らの意志を持つことが出来なくなってしまって、垂直的な資本発展のみが許された「悪い場所」としての東京というものがあって、意志を持つことが許されない東京と言うものがゴジラのようにこの街を徘徊しているような気がします。
日本国というのは、江戸期の様な地方の分裂が想定されない限り、韓国の様に政府機関を速やかに地方へ分散すべきだったのに、そういうことが出来ず、Status Quoのまま来ている。この結果引き起こされた東京が肥大することによって引き起こされた地方の縮小に対するカンフル剤として、更に東京などの大都市の行政機関の補完機能として、「道具」としてのアートプロジェクトが引っ張り出される、と言う、非常にちぐはぐな構造になっていると私は思います。
アートの未来は、日本の民主主義はいかに?ということでした。
ありがとうございました。
■00:26:20 岩渕
それでは、こちらの方にお戻り頂いて、早速議論を初めて行きたいと思うのですけど、また、いきなり振っても何なので、一応どういう順番でお話を伺っていくかと言うことを予めスピーカの方にお知らせをしておきたいと思います。今日のスピーカの中で官僚の経験がある方が内山さん、上山さん、それから、国会議員経験のあるの斎藤さんもいらっしゃって、なかなか非常にユニークなバックグラウンドの皆様なので、今の話で、書類を作ることが半ば目的化したような状況があると言う指摘について、内山さんに最初にお話を伺いたいなと思うのですが、いかがですか。
■00:27:10 内山さん
とにかく、書類が膨大で、それに忙殺されて、肝心なことが出来ないと言うのは、実はまさに大学教員が直面している問題でして、こないだも文部科学省から、膨大な書類を書けと言われて、それをやって、もうなかなか研究が出来ないと言うひどい状況なんですけれど、この基本的に英語でもレッドテープ(Red Tape)と言う言葉があります。繁文縟礼(はんぶんじょくれい)と言うことですよね。官僚仕事で大変な書類が出てきて、非常に形式主義的だ。これは日本だけに起こる現象ではなく、欧米でも兼ねてから指摘されていることでして、官僚制の逆機能、ディスファンクションと言うんですけれど、官僚というのは誰を相手にしても同じようにしなくてはいけないわけですよね。人によって、やり方が違ったら、これは法治でなく、人治になっちゃうわけですね。やっぱり、法治、法の支配を貫徹するのであれば、法に基づいた客観的、形式主義的にやらなければならない。ところが、これが逆機能をディスファンクションを起こしてしまうと、まさに、その書類でがんじがらめに縛ってしまう。更にはまさにはその会計を一円単位までも辻褄合わせないと駄目になってしまう。こういう構造になっちゃうわけですよね。
別の観点から見ると、これは行政特有の責任回避行動なのかなと言う気がするんですよね。責任回避、ないしは非難回避、ブレーム・アボイダンス(Blame Avoidance)ということが出来ると思うんですけれど、その何かあったときに、ほれ見ろ、お前がちゃんとしていないから、こんなことが起こるんだと言われてしまう。それを言われないように、予防線を張るためには、完璧な書類を作っておいて、我々としては書類は完璧に見たんです、作らせてやったんですと、最善を尽くしたんです。だから、悪いのはあいつなんですと言い訳が出来るわけですよね。
実は若干、話がそれますが、これは行政だけの問題ではなくて、実は政治家もそうなんですよね。尖閣の問題にしろ、色々ありますが、下がやったんだ、官僚がやったんだとだから、海保の長官を処分するけれども、大臣は処分する必要はないんだ。そういうロジック使うわけですね。考えてみるとこれ、自分たちの部下がしでかした不始末というのは本来トップの人が責任取らないといけないと思われるのに、下がやったんだ、下に責任転嫁、責任回避を行ってしまう。こういう構造が日本の官僚機構、政治機構問わず、かなり広く浸透してしまっているのではないかと。
官僚機構はその書類主義でもって、逆に民間の側とか、ユーザーの側に責任を転嫁してしまうという行動様式がある。これをどうするかって言うのが本当に問題なんですが、あの僕の今のところのテンタティブな考えとしては、本当の意味での政治主導で、しっかり責任を取れるポジションと言うのを作って、しかるべき人を据える。結局それをしないと、責任回避の連鎖みたいなものは止めどもなく、広がって行っちゃうんじゃないか。これはやっぱり、一つのレッドテープの大きな問題かなと思います。とりあえずはそんなところです。
■00:30:35 岩渕
ありがとうございました。次に上山さんに振ってもいいですかってことなんですが、上山さんは官僚のご出身でその後民間のシンクタンクでお勤めになって、アメリカの大学でも、日本の大学でも、教えた経験をお持ちですね。
一部省略
■00:35:40 岩渕
(上山さんが言った)よく分からないものであるという部分についてなんですけれども、先ほど渡辺さんがご指摘になった、それはキューレーター側の責任でもあるのかも知れないんだけど、アートをアートとして説明しないで、当座、議会を通すためとか、予算を承認してもらうために、他に教育的に価値があるとか、防災と関連してどうであるとかそういうエクスキューズと言うか、そういう論法を使い勝ちで、予算を通したり、承認してもらうために時間が限られた中にそういう論法をとってしまって、その結果わからないまま戦後ずっと来てしまったところがあると思うのですが、それが「わからない」という意味ですか。
(上山さん)そうなんだけれども、この分野に限らないですよ、それはさっきのプレゼン聞いて思ったんだけど、アートを福祉に変えても同じ。
(岩渕)環境でも。
(上山さん)環境でも同じだな、教育でも同じだな。官僚主義というのは、そういうものとは対立しちゃうんだよな。根源的に。学校給食を配るとか、道路をきれいにするとか、誰が見ても、意味がはっきりしていて、費用対効果だけで評価すればいいものの場合はいいんだけれども、そうでないものになった瞬間何でも。官僚主義、官僚主義って言うのは、民主主義突き詰めると官僚主義になるんですよ。というのは、説明責任を徹底的に突き詰めると、全ての議員が納得し、全ての市民が理解できるところまでデータを出し、論点を整理し、ということになると某大な資料を要求されるわけですよね。だからあのいみじくもあえて絡みますけど、民主主義を突き詰めるとアートは死んでしまうと。
(岩渕)そう言えない事もないですね。
(上山さん)言えない事ないでしょう。民主主義の質が問題であってね。
(岩渕)どのくらい弾力的に運用できるかってことですね。
(上山さん)民主的な政治家が政治的リーダシップを発揮する場合は良いけれども、単なる民主主義を突き詰めると、単なる官僚主義に当然なるので、日本は民主的な国家なので、極めて官僚主義になるんですよ。
(岩渕)民主的であるのか社会主義、もしくは、全体主義的であるのかというところが微妙なところなのかも知れない。
(上山さん)政治が本来官僚主義的に動いてしまう官僚制度とか法律を弾力的に運用するっていうのが大事なんだけど。
(岩渕)システム的にはよく出来すぎている。
(上山さん)システムとしてよく出来ていて、高度成長右肩上がりで、どんな計画を立てても、財政は後からついてくる前提なので、官僚制度でも別に困らない。後の人たちが何となくアートの人たちが、被害妄想があるのは、優先順位が比較的下だったんですよね。海外では教育がものすごく被害妄想があって、教育の人たちが極めて下なんですよね。日本の場合は環境に追い越され、福祉に追い越され、アートは何故か一番最後みたいな気持ちになっているのが現実なんですよ。ウェイティングリストにあるわけですよね。
(岩渕)なるほどね、それはありますね。振幅があって、アート系の人があって、福祉系の人が出てきて、その後、また文化の人が出てくるという振幅はどこの自治体でも見られがちなことかなって気がします。
(上山さん)まあそこはそうは言っても、弾力構造があって、日本の行政は環境とアートととかね、アート教育とか、ふにゃふにゃ言って、教育委員会も絡めたりしながら、誤魔化しながら、前に進むというのが現実で。それは別にアートだからではないと思いますよね。環境教育も同じくらいひどい目にあっていて、同じような愚痴言っていますから、もっと割り切って正面から戦えよという気が私はするんですけれどね。
■00:40:00 岩渕さん
ちょっと引き取らせて頂いて、次は斉藤さん。今みたいな話があって、特にアメリカの場合、アートはどちらかと言うと正攻法で行く。教育は教育で正攻法で行くと言うことがあると思いますし、アメリカの官僚が決して優秀ではないということはないと思いますけれども、政治家のリーダシップだったり、民間のリーダーシップだったり、歴然とリーダシップがあると言う印象がありますよね。斉藤さんは議員のご経験もおありで、志を抱いて、立候補されて、33歳の時に山形4区で議員になられた。またその後に、大学にいらっしゃって、政治学を大学で教えていらっしゃると言うキャリア・パスも日本的に考えると興味深いと思うんですが、その辺のご自分の経験も踏まえ、理想を実現することが日本ではどう大変なのか、アメリカとの比較において、お話頂けるといいなと思います。
■00:41:08 斉藤さん
まず、色々な問題が指摘されていましたけれども、自治体に予算がなくなって、人員が削減されてと言う問題はデフレから脱却することが最優先課題だと思います。まず、アートと民主主義ということですが、アートと民主主義とデフレですね。これからどうやって脱却するか、お金がなければ始まりませんから、そこをもう少し真剣に考えていかなきゃいけないのかなと、アートと福祉はトレードオフのようにガンズアンドバターズみたいな考え方をしがちですけど、お金さえあれば、両方出来るわけで、その経済的な基盤をどのように作っていくかを先に考えなければいけないのかなということを先ほど来から考えていました。
それから、岩渕さんに頂いた具体的な質問ですけど、日本の官僚、政治機構が抱えている問題って言うのは、説明責任をどう捉えるかと言うこと関係してくるのですが、基本的にプロセスを緻密に評価検証する割に結果に対して責任を問われることが非常に少ない。ここに大きな問題が集約されるのかなという印象を抱いております。
結果を評価するために、美術館あるいは博物館に明確なミッションがなければならないと、私はイェール大学の大学院に入学した時に総長のスピーチを明確に覚えているんですけれども、イェール大学には3つミッションがあるんだと、まず新しい知識を作り出すことだ、これはまず「研究」ですね。今ある知識を伝承することだ、それは「教育」ですね。そして、古い知識を保存することだ、だから、イェール大学には図書館があり、美術館があるんですという話をしていたんですけれども。
日本の博物館、美術館、あるいはアートをどうして行くかと考えるとですね。優れたアート、作品を持つことで、その価値を保存し、高めていくことがその美術館・博物館の運営主体の評価とどうリンクしていくか、自治体が美術館を持つことはモデルとしては私はあってもいいと思うんですけれども、地方自治体には様々なミッションがあって、美術館はその一部でしかないわけでして、もう少しこのアートの価値を高めることに特化したミッションと説明責任を持つ経営主体を自治体の複雑な多様な機能を持つ自治体の一部としての美術館と言う中でどうして行くのかと言うこととどう整理していけばいいのかということを考えます。
先ほどの説明責任を過程で考えるのか、結果で考えるのかと言うことはもう少し離れた問題かも知れませんけれども、やはり専門家を大切にしない日本の組織文化と言うことがあって、現場で気合と汗をたらふく流せば、何とかなる的な精神主義的がどうしてもよくなかったと思うんですね。
組織のローテーションも大切ですけど、美術館を回すための資金のマネジャーですとか、キュレーターですとか、専門知識とか専門性が大切なところにはきちんと投資して行く。そして、必ずしもローテーションで回していけばいいものではないと言うことは明確に考えていった方がいいのかなと思います。
■00:45:17 岩渕
ありがとうございます。次は金山先生に伺いたいのですけれども、専門家を大切にしない日本の文化という部分で、美術館・博物館で、事務方はその必要最低限の人数はもちろんいると思うんですが、それぞれの分野の専門家で、保存や修復の専門家を置いておける、そういうことを出来る環境の館も非常に少ないと思います。そんな中で、新潟の事故があったり、今年の夏は文化財の事故と言うのがありましたし、輸送の事故と言うものもありました。静岡県立美術館ではトリノから借りて来ていたエジプトの石像がゴトンとなった事件とか、あと屏風で金箔が黒ずんでしまった事件とか、随分色々あったと思うんですけれども、そういった中で、予算が切り詰められてきた中で専門家の方たちが雇えなくなってきていることによる具体的な弊害が目に見える形になってきたのが今年なのかと感じたんですが、その辺はいかがお考えでしょうか。
■00:46:40 金山さん
(金山さん)今の新潟市美術館の話がありました。私は先ほど紹介にありましたように、新潟市美術館の評価の改善委員会の委員長と言うことでこの4月からこちらにいる上山さんもメンバーなんですが、一緒にやってきました。この事故の発端になった展示作品からカビが発生した。蜘蛛も発生した。これはまた別の作品なんですが、皆さんご存知のことと思います。
これは別に専門家が特にそこで資料を専門に扱う本来ならば、学芸員の仕事の範疇の中で取り扱うべき問題であって、彼らの資料を管理していく責任能力の問題だったと思うんですよ。特段彼らが専門性がなかったわけではないんですが、カビを発生させた作品については生土を使った作品でこて細工を使った現代アートなんですけど、常識的に考えて、生土を展示室に入れて、作品に仕上げれば、空調をちゃんとやったにしてもですね。カビの発生が想定されるべきものであると思うんですが、その辺の想定が十分されていなかったとか、蜘蛛が発生した作品は電動カートなんですが、運び入れる時に電動カートをちゃんとチェックしたり、クリーニングをすれば、実は蜘蛛の巣が張っていて、卵までそこに産みつけて、卵が孵ってそこから、蜘蛛がどんどん出てきたということで、事前のチェックをしていれば、防げた問題だと思うんです。カビ・蜘蛛の問題は大きくクローズアップされましたけれども、極めて常識的な範囲の中で、管理責任を怠ったと言う問題だろうと私としてもそうですけど、委員会としても、そういう考えでですね。報告書には書いた通りなんです。
(岩渕)それは現場の職員の資質的にちょっとその足りない部分があったからなのか、それとも管理者の方により責任があったのか、どうお考えですか。
(金山さん)管理者と言う問題が今出ましたけれども、新潟市美術館はその辺りちょっと複雑な問題がありまして、これは新潟市が政令指定都市に制定された記念で、現代美術のイベント「水と土の芸術祭」というのを新潟市の市長が中心になってそれを企画して、現代アートのプロデューサーの北川フラムさんを登用して、総監督に位置づけて、当然そのときに美術館も会場の一つになるわけですから、美術館の館長を兼務すると言う形で位置づいたと、北川さんは実は美術館の館長の経験というか美術館の経験ないんですよね。そういう意味で全くの素人だった。そこには管理責任の不幸の始まりがあったんだろうとは思います。
その結果として、館長と学芸の事前の連絡協議が十分に果たされていなかった。事務方、これは副館長職がいましたけれども、その辺も副館長も、館長と学芸の間の、本来であれば、中間の位置付けとして、橋渡し役をちゃんとやるんですけれども、そこも十分位置づいていなかった。ということで組織内が十分にマネジメントされていなかったことが、学芸サイドでの管理体制の不備、学芸サイドだけではありません。組織全体としての作品に対してのケアが怠ってきたと言うことになると思います。
■00:51:30 岩渕
ありがとうございます。新潟は特殊な例というお話がありましたけど、日本の美術館や博物館は特殊な例だらけの運営体制になっていることがあるのかも知れなくて、その辺が欧米の美術館とはかなり違いますよね。後で議論させて頂きたいと思います。
次に荒川さんにお伺いしたいんですが、渡辺さんが指摘された中で、アートをアートとして説明してこなかった部分について、それは私も美術だけではないですが、色々なところで感じることが大きいです。活動しなければならないからお金がいる。デフレからの脱却の話もありましたけれど、お金がないと何も出来ないので、いかにして、どこからお金を取ってこようかということが、文化施設の運営をやっていると最大の課題だと思うんですよね。そういった中で、何とかアートの文脈から逸脱しないようにしつつも、お金を取ろうとすると、やはり教育とか、特にアカウンタビリティの話があると、アウトリーチ、如何に納税者に認めてもらって、アートにお金を使っていくかという話にどんどんなっていって、その辺で本末転倒と言うか、教育のためのアートみたいになってしまい、アートのための教育ではないということが起こってきたりということが起こってきます。その辺、荒川さんは色々な美術館をご覧になっていたり、海外の美術館もよくご存知だと思うのですが、いかがですかね。
■00:53:15 荒川さん
アートをアートして捉えるかということで、私自身の本来の専門は西洋美術史で、しかもアートがアートだった時代の18世紀から19世紀という本流の辺りをやってきたんですけれども、偶々とはいえ、法政大学のキャリアデザイン学部という生涯学習社会を構築することを目的とした学際的な学部に所属しているということもあるんですが、日々大勢のマンモス大学で若い学生たちと接していて、日毎にというか、年毎に、アートというものを扱うことを、アートをアートたらしめているものというのは何なのだろうと、正直自分自身がこれまでやってきたことの存立すら危ういような感覚を持ちます。
一つには、要するに学生たちは端的に言ってしまえば、学部とか、専門領域とか、差はそれぞれ違いはあるでしょうが、一般的に見て、極標準的な都内大規模私大の文系の学生は美術館は不要なんですね。思い余って、自分の授業を取っている何百人の学生に半期に一度は美術館に行ってくれと、ツイッタ3回分でいいから、レポートを書いてくれと頼むんですが、生まれて初めて美術館に行って、こんなきれいなところだとは思いませんでしたと言ったことを大学2年か3年になっても書きます。人生にとってミュージアムがなくても、私は「社会とアート」と言った授業とか、「文化組織マネジメント」と言った授業をやっているんですけれども、彼らにとっては美術館に行くことは、アートを学んだりとかアートについて考えるということとはちょっと次元が違うことと考えている。
その代わりに墨東まち見世だとか、東京アートポイントだとか、越後妻有トリエンナーレだとか、愛知トリエンナーレといったような、さっき渡辺さんが仰った地域系アートプロジェクトに目を輝かせて、聞いてくれるし、手前味噌なんですが、私のゼミ生たちもずっと今年度立川市の市役所のご協力を得て、ファーレ立川が丁度、フラムさんにもご紹介頂いたりもしてきましたけど、ファーレ立川がオープンして、10年、20年経ってきて、その次の世代が全くその当時の立川の背景のことを知らない今20歳前後の若者たちがあの大きな赤い植木鉢って、面白くないって?ということで、その前でミュージックビデオを作ろうよという風な全く別の文脈でアート作品を再解釈したり、そういう中に毎日身を置いていますので、私からまず是非渡辺さんに、質問を受けて質問で返すのはあれなんですが、地域系アートプロジェクト、ある意味では、バブルのような、この夏もたくさんあって、個々の入場者数や人数からいくと成功したというような言い方をされることが多いかなと思うんですけれども、只中に身を置いていらっしゃることも考慮して、学生を代弁しますと、「地域系アートプロジェクトの何が悪い」と彼らは言うと思うんですね。
本日いらっしゃっている方々の中にも大学院等でアートマネジメントや文化政策を専攻していらっしゃる方も多分少なからず、これから自分たち何をやっていくんだろうと学芸員の門はほとんど門がないに等しいぐらい少ないし、地域系アートプロジェクトで、単年度でも何でもお金もらって、向こう3年間ぐらい、食いつないでいきながら何とかしようというのが多分本音かなと思うんですが、それに対して、渡辺さんから、今の内に止めた方がいいよでも何でもいいからお考えをお聞かせ願えればなと思います。
■00:57:27 岩渕
ありがとうございます。まず、渡辺さんにお聞きして、その後に、フロアとツイッターなどで来ていると思われる質問にも答えて行きたいと思います。
■00:57:40 渡辺さん
質問ありがとうございます。
私、最近都内で、大学の美術を教えているスタジオアートの先生に実は相談されまして、授業でヌードモデルを呼んで、クロッキーを描くとそういう中で、10人ぐらい学生がいると、2人ぐらいはアニメみたいに描いてしまうらしいんですね。美術を教えることが困難になってきている、どうしたらいいですか、と聞かれて、答える言葉がありませんでした。
これは皆様に深刻に考えていただきたいと思っています。今まで考えていた社会が、前提から崩れてしまっている。
主権者意識の発露として生まれた近代美術館を、市民が自分たちのものとして、思えない。そして、市民がその構造を理解しないままに、美術館を私たちに解放せよ、と言っている。どういうことかと言うとこれは、国会の前に市民が行って、国会議員に向かって、何故俺が中に入っちゃだめだ、と言っているのと全く同じ。構造がないままに、自分たちの態度そのものを肯定する逆切れのような状態になっていて、専門性の高い美術をやっている人に対して、専門性を持って返答するのが私の責任だと思います。しかし、それが前提として話すことができない、というの今の状況です。
例えば、ちょっと飛んじゃいますが、今中国と日本、色々問題になっていますが、恐らくですが、中国は日本の民主主義はこんなものか、中国の方がもっとうまくやっていると思っていると思います。それに対して、私たちはどうやって答えるんですか?とみんなに問いたいですね。
それに関して、地域系アートプロジェクトに関して、直接的な返答、何がいけない?ってことに関しては直接的な返答はありません。しかし何がいけないか、自分たちで考えて欲しい。
■00:59:42 岩渕
ありがとうございます。
今のご指摘は大変重い部分だし、日本はそういった真面目な議論を避けるという傾向があって、文化庁が設置されて以来、戦後ずっとそうだったのかなと感じがするんですね。やはり、食べることが戦後最優先されて、その中でアートというものがシビルミニマム的な形で位置づけられて、施設として全国にあるべきであるということから入っていったので、観念的な、概念的なアートがどうあるべきなのかとか、専門家=プロフェッショナルとしてのアーティストとはどういう人であるのか、プロフェッショナルとしてのアーティストと日曜画家は、本質的に違うのであるというような議論をして来なかった。避けて来たのかも知れないし、してこなかったし、そういう議論をしたがる人も少なかったということが日本にはあったのではないでしょうか。
■01:00:50 岩渕
渡辺さんも私もそうですけれど、アメリカで人文系の教育を受けた人は観念論的な議論を延々とやらされるじゃないですか。
あと、器としての美術館がどういうものであるのか、社会の中でどうあるべきなのかと言ったようなことも絶えず議論をしていくわけなんだけれども。政治とアートとの距離、アートを政治的メッセージを表現する媒体として使う。美術館がそういう場所に使われることに学生はコンシャスだと思うし、面白いのは大統領選挙のときに、芸術系大学は、ハリウッドもそうですけど、民主党の地盤だったりして、大統領候補が大学にも来ますし、色々な美術館にも来たりということがあって、政治と美術の間の距離を感じないというか、同じレベルで議論するってことを感じるんですよね。日本ではそういうことがない感じがする。
どうしてもとりあえず、お金が必要だから、みんなにわかるように、表現が適切かどうかわからないけれども、テレビのバラエティみたいな形で、アートを少しずつ彼らは民主化していると思っているのかも知れないけれど、少なくとも私から見ると異質なものに変えてしまっているところに違和感をおぼえる部分がある。
特に、美術館は存続することが使命であると、欧米社会では定義されていると思うけど、一つテーマとしてあげたかったのは、米国の場合、憲法修正第一条が錦の御旗というか、あらゆることで、「表現の自由」、市民の権利としての「表現の自由」が出てくる。美術館という文脈の中では、芸術の表現としてならいろいろなことが許されるという前提があって、そのことを美術館の外に向かって説明するし、議論もする。日本ではなかなかそういうことが起きない。そういうところを憂えているわけです。内山さんと斉藤さんに聞きたいしたいのですが、そのあたり、いいですか。
■01:03:33 斉藤さん
日本の色々な公共政策各分野に共通する構造的な問題だと思いますけど、建物だとか、設備だとか、施設にはお金が付くけれども、そこを運営する専門家ですとか、人に回す予算が貧弱だ。あるいは長期的に専門知識にコミットすることに対して、お金を掛けられない。そういった問題が大学にもありますし、地方自治体にもあるのかも知れませんし、美術館にもあるのかも知れない。そういうことが積もり積もって、あるのかなと思います。
■01:04:25 内山さん
今の問いへの直接的な答えになるかどうか、わかりませんが、今日の渡辺さんの話にもありましたが、道具主義的な考えがありましたが、アートは道具なんだと、地域振興の道具でだったりとか、何がしかの経済的利益を得るための道具であって、アートを目的として捉えないのは確かに大きな問題であると思います。
一つには専門性のある人材がいないと言うことです。専門性、教養なのかもしれません、文化的そのものの価値を見出すことがなかなか出来ない。出来る人がいないってことですよね。
価値観の軸がその単一の軸になっている。全て経済に還元して、経済的利益で考えてしまう。
それとはまったく別の軸としての文化的価値というものを評価できない仕組み、これは政治的にもそうであるし、日本の社会としてもそうなのかも知れない。それの根源がどこにあるのかと言われると難しいのですけれども、一つには、教育の問題なのか、昔の日本の教養主義的な教育が良くない。大学をもうちょっとプラクティカルな教育をしておこうと話になりつつある。そういうのはある意味怖いな。価値観の一次元化を持たらしてしまう。教養を重視する教育が大事になっていくのかと思います。
■01:06:30 斉藤さん
教養ということでよく考えるのですけれど、米国の大学を見ていると、経済学がメジャーの人が、アートヒストリーをダブルメジャーとか、アートと他の学術分野との垣根が非常に低い。日本だと経済学部に入ると、もうアートのことは一切やらない。
数学専攻だけれども、専攻分野の一つとして、絵を描いている。そのような学生はわんさかいます。高等教育のあり方も少しは関係しているのかなと思います。
■01:07:15 上山さん
私も米国系企業に14年、米国にも6年住んで、アメリカと日本を比べれば、皆さんと同じ考えですが、日本のアートの現状が悪い方向に行っているのか、良い方向に行っているのか、全然変わっていないのか。と言うと、私は結構良い方向に行っていると思う。私は楽観論者なんですが、米国と比べて、日本のアートの状況は悲惨な状況であるかと言うと、他の分野よりましだと思います。
(岩渕)他の分野とは?
■01:08:20 上山さん
福祉、学校教育、環境行政とか、欧米と比べて、いまいちなのは金がない。ひたすら金がない。税金が極めて安い。米国も世界一安い、韓国も日本も安い。かつ、国民が豊かな気持ちになれない。税金が安い割には豊かな気持ちには慣れない。社会的インフラがまだ足りないので、なれないので、余裕がない。
米国に行くとすごいなと思うのは、ものすごくお金があるな。金に余裕がある。余裕がある社会がアートにお金があるのは、当たり前で、それと比べても仕方がない。
大英博物館、ルーブル美術館はすごいなと。彼らがどうして、蓄積したかは、ああいうやり方をしたんであって。
(岩渕)米国は財力にまかせて美術品をどんどん購入し、一方、ヨーロッパ諸国は、各地からかっぱらってきたんだから、逸品が沢山あって当然ということはありますね。
日本でアートの議論をするときに、西洋/欧米と同じものが日本にないから変だとか、あちらが正しくて、こちらが間違っていると言う議論はおかしいと思っている。しかし、比べるところから、進歩のヒントは山ほど出てきた。我々の状況より、あちらの状況がベターだというのは、双方の美術館へ行くと、認めざるを得ない事実のように思えます。
■01:09:44 上山さん
NPOの業界で起きたことを考えると、いいかも。神戸で震災が95年1月に起きた。全国からボランティアが集まってきた。みんな驚いたんわけですよ。素人が集まってきて、役に立たないと思ったら、公務員より、自衛隊よりはるかに役に立った。とってもいい気持ちになったんですね。政治かも含めてね。与野党問わず、あの人たちはとってもいいよね。
超党派でNPOに法人格を上げようということになった。ボランティアの人たちもしたたかで、飛躍するチャンスだと、どうやって飛躍するかというと、法人格をもらって、役所の下請けになろうと。下請けになって、契約相手になって、たくさん金をふんだくって、組織とインフラを充実させようと思って、NPO法を作って、公益法人改革と言う流れが出てきて、役所の外郭団体、役所の子会社が独占していたNPO業界に公益法人業界を粉砕してしまった。15年がかりと言うと早いと思うけど、陣地をじわじわ広げて、今NPOと言えば、当たり前になってしまった。あそこまで飛躍した。アートはどうだったかというと、明治以来引きこもっていた。上から目線の引きこもり、最低と私は思うだけれど、かろうじて、演劇の人はうまくやったと思うのね。演劇の人は役所の人とつるんで、、建設工事をして、あちこちにホールを作った。作っちゃえば、勝ちで、何か演じなくちゃいけないので、ソフトに補助金寄こせと言って比較的全国で金が回ってますよね。敢えて、毒舌/逆説で言っているのだけど。もっとしたたかにやれば良いし、流れ見ていると、現代アートとマンガとごちゃ混ぜにしている若者がいると言うのは、非常に素晴らしいことで、美術はいいと彼らは思い始めたわけですよね。
(岩渕) そうですね。ある意味かっこいいとは思っているんですね。
田んぼに現代アートを出しても農民から石投げられない時代になった。すごい進歩であって、何が悪いのだと私は言いたい。
■01:12:20 岩渕
日本と欧米を比較するのは意味がないというのは分るのですけれども、戦前と今を比較することはやっても良いのでは? 石橋財団とか、大原美術館とかは、米国の美術館の設立経緯と変わらないやり方で出来ているんですよね。今の状況は戦後起こったことですね。日本人が元々今のようなシステムの頭でいたのではなくて、元々は、ベンチャー・スピリットにあふれた人が地下足袋からタイヤを作ったりしたわけです。大原社会学研究所は、今でも法政大学と関係があると思いますが、そういう意味で、エンタープライズ的に、自発的に、色んなことを考えてやってきていたわけです。戦後は、単に運が良かったから経済成長を遂げ、その結果、何でもできてしまったということがあって、苦労してやってきたわけではないから、自分たちではどうやってやれば良いかの説明ができない。その結果としての今のシステムという部分もあると思うのですが。
■01:14:05 上山さん
利用されたくないアートの議論があるんだけれども、集客の材料じゃねえとか、教育の道具じゃないとか、言う意味は分かるんだけど、分らない人にお前は分らないと言っても、相手は分らないので、とりあえず、楽しいから来てねと言って、遊んでもらうしかない。
(岩渕) 入口としてはね。
それから、大学受験に役立つかもよ (笑)
(岩渕)とてもプラグマティックですよね。上山さんのアプローチは。
ということをやってね、実証した上で、裾野を広げて、ピラミッドの裾野を広げた上で、ピラミッドの頂点に蒸留水のようにホントのアートの議論が出てくるんだけども、そこでもむずかしいのは、日本の宗教のあり方と向こうの宗教のあり方は違う。政治のあり方の違いも繋がるんだけど、伊勢神宮に行くご神体があるのかないのか、誰も見たことがなくて、かつ、近寄れないないから、偉いということになっている。ルーブルに行くと、宮殿の中は誰でも歩き回ってあれだけのものが見られる。
我々皇居に入れない。見せないのが偉いと言うのが、東洋の文化で、中国もそうだけど、根源的にミュージアムと言う文化は根っこから相容れないところがあって、突き詰めると、皇居を全面開放して、あそこをエルミタージュのようにすると言うことをやらない限り、日本人の意識は絶対変わらない。皇室財産を正倉院だけでなくて、全部いつでも見られると言うようにしない限り、日本人はアートを信用しないと思う。
■01:15:48 岩渕
その辺りの議論はそろそろあってもいいのかなとも思うけど。金山先生、はい。
■01:16:00 金山さん
今の議論を聞いていて、私の意見なんですが、民主主義という話はさっき出ているんですよね。渡辺さんは非常に危機感がある。岩渕さんも真面目な議論をして来なかったという意見である。
民主主義という考えの捉え方があって、制度だとか、民主主義の理念を突き詰めていくと、規則だとか規律だとか、それと逆行する。理念を追求していくと、今の時代に合わせて、議論をどんどん絶えずして、緊張関係を維持していくことをしなければ、これまでの通り、なあなあではとてももたないだろう。そういうことを渡辺さんは仰ったのだろうと思います。。
■01:16:57 金山さん
アートの目的、渡辺さんのアートの目的を学んだんですが、アートは一体何だろうというと、僕はピラミッド構造になっちゃっていると思うんです。一番頂点に日本では国家が保護した芸術院の会員が入る。その下にずっと連なる下地があって、一番下の素人集団のアーティストたち、その中間には例えば、NPO話がありましたが、柳宗悦の民藝運動を評価しているんだけど、彼の民藝運動は大正の末期、昭和の初期にかけて、まさに、アートNPO第一号だと思うのですが、そういうのが、どこに落ち着くのかと言うと、今日の議論にはどこにも出てこない。この辺りで、アートのピラミッド構造をぶち壊して、アートの構造を再構成していくような発想があってもいいのではないか。
田んぼの中もアートの現場だし、あるいは、イギリスの場合は、ロンドンの博物館の学芸員は、Social Inclusionの活動で、刑務所に行って、囚人にアートの教室をやって更生させてますよね。あるいは知的障害者のアートの展覧会なんかもやっている。福祉だとか医療だとか、そういったものと結びついている現場がある。美術館なり、博物館でやっている。
ですから、その辺のことも含めて、サークルの中にアートを入れ込んでいって、もう一回議論することが大事かなと思う。
現場の美術館はそんなに遅れていないと思う。進んで活動をしているところはたくさんある。ですから、日本の美術館は捨てたもんじゃないと思う。新潟の場合はちょっと別でしたけれどもフロアにも美術館関係者がいらっしゃるようだし、またご意見をお願いします。
■01:19:15 岩渕
フロアからの意見を求める。
■01:19:55 フロアから
2000年前後に新しい美術館を作ると新しく組織替えをするとかいろいろやってきたんですけれども、今日の話を聞いて、最初の渡辺さんのプレゼンのテーマが僕たちにはアクチャルに面白いですね。地域系アートプロジェクトと美術館と言うのは現場として、ある主の危機感と言うか、すごいシンボリックに凝集しているところがあります。北川フラムさんとか、トリエンナーレとか地域系のものが伸びていく。我々のような1951年以来のミュージアムと言うのが、コンテンポラリーアートを扱っていながら、立ち位置に今後なっているのかが、非常に問題なんですよね。
たとえば、「もの派」を展示すれば、現代的な日本のモダンアートの正しいラインとして、認めてもらえるのか。
それこそ、荒川さんの学生さんではないけど、見に来ないような状況があり。
我々のクライアント、オーディエンスはもっと年齢が高い人たちで芸術院会員とかやらないと集客性が得られず、得られないと経済的に行政から突っ込まれてくると、で、それでアートと言うのを主張しているのに、一方で地域的な開発がうまく行ってるかのごとくに見えるというところがある。ただ、僕が思っているのは、長期的スパンと言うものが、行政的なあるいはミュージアムというものの本質としてあって、社会の中のデモクラティックの社会にその社会のインスティテューションが長期的なスパンのものを生成できるのか。やっぱり問われていると思う。
特に非常に激しく変化してきている。必ずしもペスミスティックではないにしても、若い方があれだけ儲からなさそうなNPOとかにあれだけ行ける時代は僕らなんか美術を始めたころのエリート主義的な感じとはずいぶん違うことはそういう社会環境になっていることはすばらしいのだけど、それが、今残せるのか。社会的な資産構造として残せるのかどうかが問われている。そういうところは皆さんどう思っているのかが面白いと思って聞いていた。
■01:23:35 岩渕
渡辺さんも発言したそうなのですが、まず、荒川さんに振らせていただいて…。学生にとっては格好良いという要素は必要なんでしょうか? ポンピドーセンターとか、ニューヨークの美術館は行くことじたいが格好良くて、行くと、そこに実際、質が高く、アートとしてちゃんと定義されたものが見られる。日本でも、若者が社会に関わることが世の中で最先端のことであったり、格好良いということが、導入部分やスイッチとして重要視されていると思いますか? そういう入り口から入ってきても、段々アートにに向かっていく人がある程度確保できるとは思うのですが…
■01:24:48 荒川さん
美大やアートマネジメント学科ではないので、大学院以上で少しずつ淘汰されていくと言うのはあるのか、若者の就業とかキャリアの問題は語り始めるとそれだけで終わってしまうのだけど、渡辺さんに吹っかけたのはアーティストになるわけでも、アートの専門家になるわけでもないと言うことを織り込み済みで、大学の4年間をアート活動ツールとしての経験値を高めたいと言うだけであって、その先は愛知に行って来なよと言っても遠いからとか、バイトがあるからと行かない。
参加することは楽しいし、経験としては蓄積されるけれども、太田さんの残せるのか、今後アートヒストリーとして残せるのかということはアートヒストリーの本筋から来たので、終わらず危惧するところです。
簡単に二元化なのかとまとめる必要もないですが、二元化してきているのか。彼らの考えるアートとこちらの考えるアートがあって、その二つが交わる部分がそんなにはないのかも知れない。大勢の中から次第に専門性と進んでいく一握りの専門家となっていく人はいるでしょうけれど、そうでない人たち、裾野が広がっていくエネルギー若者の活動は本気でアートで出身地をにぎやかにしたい、何かにぎやかにしたい、何か貢献したいという気持ちで、アートの専門化には案らないかもしれないけど、昨今言うプロボノではないですけれど、公認会計士になるかも知れない、生保に勤めるかもしれない。その合間にアートに関われるというパイプが今できつつあるという感触はあります。
■01:27:15 渡辺さん
ピラミッドの話がちょこちょこ出ましたが、岡倉天心のことを考えるのですけれども、彼は覆面レスラーのような人で、モダニズムのリングを立てて、赤コーナーと青コーナーに日本画と洋画を立てて、よっしゃ来い!と自分でマスク被って、一番先に上がった人間だと思う。よっしゃ来い、とプロレスという競技を成立させて、人間が集まって、人気競技になって、シンジケートのメンバーがやると、人が一杯きたりして、日本画/洋画というシステムの観点が米国人の視点から作られたり、そういった構造的な問題がある中から、日本のモダニティが生まれてきた。
逆にアメリカとかは、モダンの歴史をヨーロッパから払拭するため、簡単に言うと私は2002年からニューヨークの大学院にいて、ニューヨークに7年ぐらい住んでいたのですが、その中で、ヨーロッパのアートフェアに出したり、キュレートのコンペに出したり、その中で競争して、勝って来たと思うのですが、米国のヨーロッパに対するコンプレックスが2000年代初頭まで強くあったように感じています。MOMAが新しくなった辺りから、アメリカによる美術史の書き換えを意図的に感じるようになって、そういう文化的な闘争というものがすごくある中、日本はそのリングに一切上がれていない。私は米国内における、白髪一雄の初めての個展を手伝いました。白髪ぐらいの画家であっても米国の美術館に入っているのが、一点しかない。白髪がタピエと組んでしまったために、フランスの文脈で取り入られることになってしまって、具体がアメリカで評価されなかった歴史がある。それを説明責任をもって、これはこうなんだ、と説明できるキュレターがほとんどいないし、それでわたしのような人に依頼が来るのですが、その専門家を育てるインフラもない。その中でアルテポーベラ、ミニマリズムがある中で、日本のもの派だったり、具体が全然俎上に乗ってこない。マーケットもできない。私はその一線でやってきたつもりがあるので、これじゃ戦えないんだ、と。アートは専門性があって、歴史があって、構造があって、それがモダンミュージアムではないのか。
私は説明責任を果たそうと思ってやっています。誰でも加われて、アートに参加できるというのは、素晴らしいかも知れませんが、専門性を持った人間として、仕事をしたいので、そういったところを大切にしたいと思っています。
■01:29:55 岩渕
どちらか全部じゃなくても多分良いんだと思うんですよね。
どこの国でも多分そうだと思うし、アートの文脈で説明責任を果たす人は絶対必要だし、誰でもなれる訳ではない。その人たち、厳しいコンペティションの中で良い人が育っていくというのは、とても意味のあることだと思う。渡辺さんのようにきちんとした考えを述べるべきだと考える人が出てきていることは、むしろ新しいことだし、大事なことだと思います。
一方で、多くの学生が、格好良いことだったり、新しいことに関心があって、村上隆、奈良美智作品が、今までアートに関係ない部分にいた人にも受け入れたということもあるだろうと思います。そこから生まれる価値もあるので、どちらでなければならないという訳ではない。ただ、アートには専門性が必要な部分もあるのだということすら議論されてこなかった日本のアート界という部分があって、困っていないのだから良いでしょうということで今まで来てしまった。
■1:31:55 岩渕
斉藤さんに振りたいんですが、米国の学生は医学部の学生が絵を描いたり、指揮者なのに学位はバイオロジーだったり…指揮者は理系が多いですよね。そういうことが躊躇なく行える環境があるわけですよね。学内の文化施設が豊かだからということもあるのだろうけれども、自分の専門領域と関係ないことに、むしろ興味を持っていろんなことをやる傾向が強いように感じられるのですが、これは教育のストラクチャーとして、そういう風に仕組まれているものなのでしょうか? アメリカ人的な特性によるものなのか、社会の特性に負うところが大きいのか。その辺り、どのようにお考えになりますか?
■01:32:25 斉藤さん
多分に大学の個性によるものがあると思いますが、ハーバード大学に行けば、演劇専攻、映画専攻は学生がやりたくてもないですから、そういうこともあって、例えば、数学と映画を両方やりたいという学生はハーバード大に受かっても、イェール大に来たりする。後は地域として、映画産業を支えるためにUCLAを戦略的に作ったカリフォルニア州のような例もありますけど、学生かたぎとしても、好きなこを将来キャリアになりそうな役立ちそうなことを両方ダブルメジャーするとか、大学によりますけど、片方は副専攻にするとかが非常に柔軟にできるカリキュラムがあるということは、日本の大学のどちらかと言うと、硬直した大学入試時点で専攻科目が決まってしまうやり方に比べると柔軟だとは思いますね。
■01:33:27 岩渕
前にツイッターで述べたかも知れないけど、ハリウッドの俳優も東部の名門校の出身の人が多かったりしますよね。それこそ、ハーバード出身の俳優とかも結構いて、専攻としては英文学だったりするのだけれども、シェークスピアなんかやっていたトミー・リー・ジョーンズなんかもそうだったりします。
イェールはもちろん出身の俳優もすごく多いですし、後、西海岸だとUCLAとUSCとかもそうですね。アーティストになるのに高等教育は必要ないみたいなところが、日本は若干あるというか、ゴルファーなどでも才能ある人は学校に行かなくても良いみたいなところがあるような気がするんだけれども、逆にアメリカでは、自分の才能の分野ではないことについて学ぶことは人生のためには必要だ…と推奨するところがあるような気がする。どうでしょう?
■01:34:27 斉藤さん
アメリカも大学出ていない俳優いっぱいいるはずですし、そういう意味では、日本とそれほど大きな違いはないんじゃないかと言う気はしますが、例えば、私が大学院生だった頃もクレア・デインズが心理学専攻で教室にいたりしましたけど。
日本の文化発信ができていないかどうかという問題提議がさきほどありましたけれども、私の日本政治の授業とっている学生にはオタク文化から、日本の興味を持ったと言う学生もたくさんいますし、日本の映画は大学のカリキュラムの中での重要な一科目を占めていますし、ある意味で、米国、私は米国しか知りませんが、社会における日本文化の発信力と言うのは、逆に最近強くなってきたのかなと。
ただ、ある分野に関して言えば、発信力を強化しなければならないような実情はあると思うのですけれど。
■01:35:32 岩渕
時間がほとんどなくなってきたんですが、フロアから、質問があるようでしたら。
■01:35:45 フロアから
私は美術の専門には勤めていません。一介のサラリーマンで、美術が好きということで来たんですが、二つの問題提議を言いたいと思います。
一つは今の話の中で突拍子もないことを言うのですけれども、美術館そのものは解体されて行ってもいいんじゃなかろうかとなぜかというと、恐らく戦前派タニマチがしきっていた時代があって、それが官に徐々に変わっていくと、最近「ハーブ&ドロシー」という映画を見てふと気づいたのですが、要するに個人の人がきっちり集めて、絵を見せられるんだなと感じたんですね。
別に官に頼る必要ないんじゃないかとむしろ、持っている人が見たい人に見せるというネットワークこそいいのじゃないかとこれはちょっとここにいらっしゃる美術のことに従事している人にとってはある意味不幸なことになるのかも知れないんですけれども、これに関して、意見のある先生方がいらっしゃったらお聞きしたいというのが一つ。
それと教育の面で言うんですが、私は美術は好きですが、美術館は大嫌いです。何故かと言うと触れないから。高価なものを触ろうという気はありません。よく振り返ってみると、日本画というものをいろいろ言うんですが、日本画の材料はみんなわかんない。それから、美術館の先ほどの事件のように実際の絵が破損したと。
我々日曜画家で描いた絵を修繕するということを一つの拠点として、美術館でそういうことを教えるとかでですね。例えば、いわゆる子供、教育と言っていいんですが、今これから美術に関心持とうとするものを美術館でプロパガンダしてですね、引き入れてしまうと、それが恐らくこれから、美術をああいいんだなという形で予備軍にするというかの方策は何かあってもいいんじゃないかなと。
片方で、美術館解体といいながら、美術館に対する方向付けをもってますし、どういうんですか、最近、タニマチ、メセナという事で、開催していますけれども、入場料が異様に高い。またあえて言うのなら、私の所属している会社でも一度開催もありましたけれど、何で高いかはいえません。ええとそういう過程を知りたいんですけれど。
それはミニマム中たちに納まっていくのではないかと、あくまでも、私の仮説ですが、今の私の券に対して、先生方の意見がありましたら、お願いします。
■01:38:35 岩渕
上山さんに振ろうかなと思いますが。大阪はそれこそ、施設ではなくて、街自体が美術館だと言っている知事がいたりしますが、その辺と、タニマチが強かったエリアだと思うんで、その辺りもいかがですか。
■01:38:50 上山さん
大阪に谷町というところがあって、そこの人たちがお金を出すから、タニマチという名前になったんですが、今のご意見は大賛成です。地方の公立美術館のなかでも不調なところは、市民が特にほしいと思ってもいないのに、横並びで美術館を行政がお金を出して一部の特殊な愛好家と特殊な学芸員だとかに任せた結果、漂流しちゃっている状況なんです。
どうするかと言うのは、もちろん何とかしなけりゃいけないんですけれど、論理的な一つの研究者的、第三者的な言い方しちゃえば、ここで一回解散しちゃうというのはありかなと議論は、非公式だけどやったことだあるんですよね。
と言うのは、誰のための美術館かわからなくなっちゃっているんですよね。あのテーマが非常にはっきりしているんだったら、棟方志功×青森みたいであれば、ね、まあ、郷土の誇りだし、美術分からない人もそれがあるってだけで嬉しい。そういうのだけなら、いいんだけど、なんとなく、第何位で総合百貨店的なものがあるんですよね。個々の作品を見ると別に悪くないし、30億費やしたにしては、存在感が全くない。みんな真面目なんだけど空虚なんですよね。そういう状況なんですよ。
意外とこれは一回解体的出直しをした方がいいじゃないか、あまり答えを急がない方がいいじゃないかと思っているんですよね。子供たちに見せてみたり、何か小学校で展示してみたり、色んなことしながら、色んな市民がこれをどうしたいのかと考えてもらう時間見たいのが結構必要なのかなと言う気が私はしていて、それで、全国の状況に照らすとあのう、それなりにアートは必要だとコンセンサスは出来ていると思うんですよ。福祉か?アートか?という政治家は減ってきたと思うんですよ。アートは何となくこれからの日本の社会にとって必要だとそこはかとないコンセンサスはあるし、企業の人たちもデザイン性がない商品はやっていけないってことは分かって来ているしね。
大きな流れとしてはフォローの風が吹いているんだけれども、やはり閉じこもり系だと思うんですよね。つまり経済Versus文化と言う議論を不必要に持ち出してみたり、今や経済が文化に依存していると言うのは当たり前になっているのに、心の豊かさは金銭の豊かさとは違うと言う80年代風の議論をやっている専門家がいたり、完全にずれているともう。感覚がずれている。
それから、あえてお二人(岩渕と渡辺さんのこと)がいるから絡んじゃうけど、欧米はすごいのに、日本は遅れているというのも、これはやっぱり戦術的にはすごい正しいんですよね。わが国は遅れているから、政府はもっとキャッチアップする予算を寄こせみたいな戦術的には、その結果アートは注目を浴びたり、キャッチアップと言う意味でお金が取れたりしたんだけれども、それは西洋美術が合って、日本の美術とは違うと言う構造の上に成り立った議論なんだけれども、色んな分野が欧米キャッチアップ型というロジックが破綻しちゃっているんですよね。金融業絵画典型ですよね。リーマンショックの後、投資銀行モデルと言うものは完全に否定されてしまった。その結果、また、世界最大の郵便貯金が見直されたりしているわけですよね。
だからその種のゆり戻しが起きている中で欧米が良くて、日本が駄目だと言うロジックは戦術的にあまりうまく行かないんじゃないかと言う気がするんですよ。欧米の中に結構本質的なものがあって、まともに議論していると言うのは事実なんだけれども、あのちょっとこれぐらいにしておきましょう。
■01:43:22 岩渕
ありがとうございます。
本来の芸術の議論というのはプラグマティックなものではないと思っているのですが、上山さん的な議論を上山さんの土俵ですることももちろん出来るし、日本という固有の社会と文化を前提とした議論はもちろん可能です。が、今日の我々の役割としては、プラグマティックではないのものの必要性を指摘するということが一つの目的でもあったので…ちょっと渡辺さんに。
■01:44:00 渡辺さん
まず、リーマン・ショックの例が出ましたが、マーケットに関して言いますと、リーマン・ショック以前、そしてリーマン・ショックで破綻した直後のオークションに出ているんですが、リーマン・ショックの時に乱高下した作品と言うのは、三十代の前半から後半にかけてのミッドキャリアのアーティストの、投機的に扱われていた作品です。つまり、金融資産として作品を買う、と言うトレンドが大体2000年ぐらいから生まれてきて、アートのファンドみたいなものができて、それとギャラリーが結託して、まあ金余りの状況と言うのがニューヨークにあった。リーマン・ショックの話が出ましたが、それでもちろん破綻したマーケットがあって、ミッドキャリアでマーケットで立ち回っていた人は苦労しましたが、セカンダリーの巨匠作家の値段は上昇し、バブル状態になっています。
リーマンの話が出たついでに言いますと、地域系のプロジェクトでは今、イギリス型のアート・コンサルティングみたいなシステムが、こんな提示をしています。例えば青少年のダンスプログラムみたいなことをやって、犯罪率が減少したとします。例えば、50件の犯罪の減少があった場合、地域社会にとってこれは500万円のメリットがある、故にこの500万円を地域社会からアート団体へと還元すべきだ、と。それこそアートプロジェクトのデリバリー化が進んでいて、このモデルはリーマン・ショックの後に出てきた。金融派生商品をイギリスが作って日本に輸出しているという構図があって、それに追随しているのが今の行政です。もしもリーマン・ショックという破綻というものによって西洋型のファンダメンタルバリューが崩れていると言うのであれば、それを倣っているアートプロジェクトも批判しなけ ればならないと思います。
■01:45:39 岩渕
内山さん、どうですか。頭を打ち振っておられるので。
■01:45:45 内山さん
非常に私も勉強になるんですが、「美術館解体」と言うのは私はとても面白い議論だと思うんですけれども、今まで色んな政策の話をするときに、官か民か、政府かマーケットか・民間か。ところがこの二項対立と言うのはやっぱり見落としている点があるんです。最近政治学・社会学に言われているのその官と民ではなくて、市民社会、シビル・ソサエティと言うのがある。実はマーケットのメカニズムに任せちゃうのでもなく、その行政の論地に任せちゃうのでもなく、市民社会が芸術を支えていくって言うのが大事だと思うんです。まさに市民が我々のものとして、役人にやらせるのでもなく、企業にやらせるのでもなく、我々のものとして、アートを支えていく構図、これが大事になってくる。それを見直すという点で官がやっている美術館を見直すというのは一つの契機になるかなと思いますね。
あと一点、最近アーツ・カウンシルを日本でも作れと言った議論が文化庁辺りからなされているらしいんですけれども、イギリスは政権交代があって、相当アートに関する予算が減らされたけれども、アートカウンシルは機能しているらしい。それは市民社会がそう言ったものが、それを支えていることですね。
まさに我々の手にアートを取り戻すと言うことは市民社会をキーワードに考えられるのかなと言う気が致します。
■01:47:22 岩渕
ありがとうございます。
10時までには終わらないといけないと言うか、ここも片付けて鍵をかけないとならないので、活発な議論になってきたところに恐縮ですが、ぼちぼちラップアップをしなければなりません。
■01:48:18 フロアから
海外に大きな展覧会をするときに、私も同行するんですけれども、ルーブル美術館にしてもこないだやったプラド美術館にしても、こちらが並んでいるのは主催する側の学芸員さん、あとが新聞社の事業局のスタッフたちですね。向こうに並んでいるのは、オルセーでも、プラドでも、ルーブルでも、皆同じですけれど、担当キューレターがいて、輸送担当、図録担当、展示担当、全部館のオリジナルの正職員のスタッフのきちんとセクションの専門家が並ぶんですよ。向こうがそういう完璧な体制が揃っていて、日本の国立美術館はそういう体制が揃っていなくて、新聞社がほとんど代行しているのが実情ですね。
相手のキュレーターや館長さんにお話を聞いても、相手の美術館の名前を言わないんですよ。日本の国立美術館の名前を言わないで、新聞社の名前をだして、パートナーシップを非常に私は信用していて、いつも仕事ぶりを嬉しく思っている信頼関係を続けていきたいと仰るんですよ。それを横で聞いていて、非常に不思議な眺めだなと思っていて、ただ、新聞社がイベントやることについては、学芸員の方も忸怩たるものであって、内心嫌がっている人もたくさんいると思うんですけれど、ただこれ、欧米型になった方がいいだろうなと思っているけれども、日本の場合は新聞社が明治以降色んな形でイベンターとしてやってきたという経緯があって、極めてノウハウが蓄積されていると言うにほんてきな発展をしてきたので、それは、日本的なシステムとして、認めざるを得ないのかなと思っています。
それに対して、国が出すね、例の補償制度の問題にしましても、国立美術館、博物館でやっている展覧会は新聞社のテレビ局の事業ではないか民間の展覧会の事業に何で国が補償しなければならないんだという財務省の議論がって、これでいつもストップするんですね。そう言うんだったら、あなたたち、これ全部でやんなさいよと作品の貸し借りから、保険金から、全部新聞社とかテレビ局のスタッフがノウハウでやっているじゃないか、それをいうんだったr、しょうがないでしょう。だから、それならば、民間がかなり関わっているんだけれども、国としても、こういう支援はできるんだから、やりましょうやろいう形に日本型のシステムを現実対応してやってもいいんじゃないかと思っています。
あと一点言いますと、美術館とアートプロジェクトの逆転現象というのが、今年顕著にありまして、渡辺さんの仰いましたように、単位が違うんですね。行政の出すお金の単位が違うんですね。それが非常に不思議なことに思っていまして、愛知トリエンナーレとか、瀬戸内とかが大成功になっていて、知事が音頭とりをしていまして、これは先導として、あっちこっちやろうとする。但し、どちらも良く考えると美術館が核になっているんですね。直島のいくつかある美術館、高松市美術館が、愛知県美術館、名古屋市美術館が核になっている。来年の横浜トリエンナーレも横浜美術館が核になる。逢坂さんはやっと関われる、自分たちのスタッフが強みになると思うと語っていて、これを見逃してしまうとアートプロジェクトは何でもいいという話になってしまって90万人と言ってますけれど、瀬戸内の実質的なチケットの売上は7万とか、9万、10分の1なんですよ、実質的なチケットの売上は。
90万といっているのは、二十何箇所のカウンタで数えて数を足し上げているだけで、そういう数字が一人歩きするのは非常に危険だと思います。
それは僕は書こうと思っていますけれども、そういうところを良く見ていてですね。アートの地域イベント、みな若者が一杯来ますし、その流れは無視できないんですけれども、その内容をもっと分析しないとみんなそっちに流れてしまってですね。それがいいんだいいんだという話になってしまうと、美術館の存在は骨抜きになってしまう。
私は美術館は解体すべきじゃないと思っていますので、美術館を核にして、もっとアヴァンギャルドなことをやっていけば言いと思っているし、水戸芸術館もやっていましたしという風に思っていますという感想。
■01:53:00 岩渕
最後に、ツイッターでどうしてもと言う質問・コメントがある?
■01:53:15 山本
ツイッターでも意見がきていてですね。私も追い切れていないのですが、大きく三種類ぐらいに分かれるのかなと思っています。
一つは道具でもいいじゃないかというご意見が多いです。
道具にされている。で、僕らも利用させて頂いている。みんな楽しそうだからいいんじゃないかという意見。最近のアートプロジェクトは日本でアートが生きる道だったんじゃないだろうかというような指摘があります。
荒川さんの話とつながるんですけれども、若者たちの現実とちょっと違うじゃないかと言う指摘もありました。
二番目が専門性という言葉が出てきましたけれど、専門性という言葉の定義は何かということを明らかにしないまま、議論が進んでわかりずらいという指摘がいくつかあります。
三番目がアートと教育なんですけれど、日本のアート教育では、アートに興味を持つようになるのは無理だと言うご意見ですね。興味を持つような教育がなされていなくて、基盤がないところに興味を持てと言ったところで無理な話ですとか、根本的にアートの作者が何を伝えたかったのかと表現したかったのかを無視しているような気がするというような大体この三つぐらいのご意見が多かったです。
■01:54:50 岩渕
ありがとうございます。
一つだけ…。専門性の定義をきちんとしていなかったという指摘について、プロフェッショナルという意味だと思うのですが、渡辺さんの文脈の中での定義をお願いします。
■01:55:06 渡辺さん
まず、美術館であれば、キュレーターが展示を作る。ファンドレーザーがお金を集める。アーカイビストが記録を作って、PRのパーソンがいて、コンサバターがいて、という役割分担があって、ミュージアムと言うのが成立していると思います。逆に例えば、キュレーターがPRをしていたら、展示が作れなくなってしまう。そういう分業するというのがコラボレーションだと思っていて、そういう専門性を持ったスタッフを揃えて先ほどあったように分業してプロジェクトを進行していく中で、私はプロの、展示を作る側のキュレーターになりたい、と思っています。
■01:55:44 岩渕
ありがとうございます。
いよいよ時間的にギリギリと言うところですので、これでラップアップしたいと思います。今日いらしている方は、美術館、博物館など文化施設でお仕事されている方も多いので、海外の美術館をご存知である方もたくさんいらっしゃると思うんですが、日本の美術館は人がいない、スタッフの数が少ないと言うことがよく話題になりますよね。ニューヨークの美術館だと、メトロポリタン美術館は警備員までが美術館の職員になっているので、2000人を超えるスタッフがいるんですよね。そんな大人数の所帯を養うなんてできないって議論はもちろんあるんですが、一方で芸術はそれだけの雇用を生み出しているわけです。専門職の市場がそれだけあるわけで、全米の美術関係の職員のジョブサイトとかを見ても、エントリレベルから全部入れると数千件の求人募集が常時出ているんですね。
日本だと学芸員の募集、特に、終身のポジションの求人といったら、年に5件ぐらいしか目にしないような気がします。若い人には仕事がほとんどない。仕事のマーケットとして、もう少し、アートの専門職市場を作っていく努力をする必要があるのではないか。それによってまた、新しい経済循環を考えることもできるんじゃないかなということを思うので、その辺りについては、これから議論していきたいと思います。
今日は二時間と言う限られた時間の中で、多岐に亘る文脈での議論になりました。本日はこれで終了しないとならないのですけれども、アートを支えるプラットフォームについての議論は、これからも継続的に行っていきたいと考えております。
荒川先生とご一緒に戦略設計中なんですけれども、上山さん的な日本固有の文化の中でのミュージアムをどうするかという視点、アートのプロジェクトをどうするかと言う議論、もう一方の「芸術とは何か」というそもそもの話を同時にするにはどうしたら良いか…。一緒に議論するためには、クリエイティブ産業論、もしくは、クリエイティブ・シティ論で括るしかないだろうということで、「創造都市とグローバル経済」という文脈で、美術以外の方たちに加わって頂いて、アートのインフラをどうしていこうかという議論を継続的に行って行きたいなと考えております。
今日は上山さん、内山さん、斉藤さん、金山先生、荒川先生に議論に参加して頂いたんですけれども、現代美術の現場で仕事をされている渡辺さんにも積極的ご発言していっていただきたいと思いますので、今後こうした議論を繰り返しながら、来年度、4月以降、大きなシンポジウムに持っていければと思っています。
日本ではシンポジウムやカンファレンスをやることが目的になってしまって、そこで何かを生み出すと言うことがなかなか起きない。シンポジウムの予算がついてしまうと、それをやることが目的で終わることが多いので、実のあると言いますか、結果の出る議論をしていきたいと思っています。今後も皆様にご案内をしながら、議論を進めて行きたいと思いますので、是非参加して頂ければと思います。
今日は仕事帰りに遅い時間までご参加いただきまして、どうもありがとうございました。スピーカーの皆さんもありがとうございました。事務局から何か一言ありますか。
■02:00:26 山本
皆様長い間お疲れ様でした。ちょっと議論が白熱してしまって、なかなか皆様にご質問などできなかったから、また次の機会もありますので、メールなど、あと今これから個人的にお話しして頂くのでも良いのですけれども、議論を続けていければと思います。では、最後にアンケートをお配りしていますので、お書きになって、この札と一緒にスタッフに札を掛けている者にお渡しください。本日はどうもありがとうございました。


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